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日本にまったく見当たらないユーロ危機の要因

『すぐわかるユーロ危機の責任』

日本の財政の将来は悲観材料だらけ

 統計上、日本の財政は悪化するばかりで、再建の展望も暗いようです。2010年の日本の名目GDPは476兆円で20年前の1991年並みの水準です。日本はGDPで見る限り、まさに「失われた20年」なのです。他方、国と地方の長期債務残高は10年度末で862兆円で、91年度末から3倍強、膨張しています。だから財政赤字が増えるというわけです。

 しかも、人口減少、高齢化ときています。日本は世界で最初に本格的な高齢化社会に突入します。現在の平均年齢の45歳(2010年推定)が、2055年には55歳になるそうです。現役世代が減少し、退職した高齢者の比率が増加します。50年前は1人の高齢者(65歳以上)を10人超の生産年齢人口(15~64歳)で支えていた、いわゆる胴上げ社会でしたが、現在は3人に1人の割合であり、胴上げから騎馬戦になります。そして2055年にはほぼ1人が1人を支える構成になるとの予想です。騎馬戦から肩車の社会になるわけです。そのままでは社会全体がつんのめってしまいます。

 高齢化社会だから、年金、医療、介護などの面で財政支出の負担も増加すると予想されるわけです。‥‥‥一年度当初予算でも社会保障費は過去最大の28・7兆円です。これが今後毎年I・2兆円ずつ増えるそうです。

 2011年末の日本の国家債務残高(国債、借入金、政府短期証券合計)は約958兆円だそうです。税率を5%引き上げた消費税分(B・5兆円)を投入しても、11年度一般会計の基礎的財政収支赤字額(国債費を除く)の22・7兆円に足りません。21年度には国債残高は1000兆円を超え、国債利払い費は20・7兆円へと倍増するとの試算もあります。税収が歳出の半分にも満たない。12年度の社会保障費はバブル時期の2・3倍に膨らみ、税収は約3割減っている状態です。

 外国と比べても状況の悪さは際だっています。図13(165頁)は先進諸国の政府債務残高の対GDP比ですが、日本だけ2007年と2011年のいずれの年も100%を大幅に上回っています。数字上は国家の財政が破綻したギリシャよりもはるかに悪いのです。

 したがってこの数値をみると、日本は大丈夫なのかと心配する人も多いでしょう。

日本で国債が順調にさばかれる理由-国債を買うお金は日本にたくさんある

 日本の企業の資金は豊富で、貯蓄も多いのです。2010年3月末、日本の上場企業のうち、有利子負債よりも手元資金の多い企業は全体の47%で過去最高です。金融を除く企業の現預金残高202兆円です。上場企業の現預金と短期保有の有価証券を合計した手元資金は63兆円です。連結主体の決算となった00年3月期以降、最高の記録です。これは日本政府の10年度予算の一般歳出を上回っています。この意味で、企業は空前の金余りの状態なのです。

 しかも、企業は有利子負債の総額を減らし、借金をより少なく、また借りる期間も長期化しています。2010年6月末で上場企業の有利子負債総額は直近ピークの09年3月末に比べ5%減り、171兆円です。

 また日本の金融資産は1400兆円を超えています。日本人1人当たり1400万円の計算になります。これに国債の9割以上が保有されています。この金融資産は60歳以上の人の平均では2500万円以上です。だから日本は年寄りを大事にするのでしょう。こんな国はあまり見当たらないはずです。

 日本の国家債務は2012年4月に始まる財政年度に9370兆円になる見込みですが、これは男女、子どもを問わず1人当たりにすると730万円となります。他方、ユーロ圏の国民はといえば275万円、ギリシャは358万円になります(Iユーロ=110円で計算)。

 以上からみると、ユーロ圏に比べると日本には国債の消化に回せる余裕資金はたくさんあるということです。しかも外国の資金に頼る割合は1割にも満たないのです。

 金融もグローバル化しており、海外のショックによる国内の金融市場の変調は頻発するでしょう。イタリアの例のように、企業や個人が国債を買いにくくなる状況も一時的にも発生するかもしれません。しかし大丈夫です。中央銀行の日銀が出動すればよいのです。デフレ危機が言われている時にインフレの可能性を語る野暮な議論はなしにしましょう。

 日銀の国債保有残高は2011年末時点で約90兆円です。08年9月のリーマンーショック前よりも3割の増加です。Fedの場合、リーマン危機前の3・7倍の1兆7600億ドルの保有です。Fedの場合、発行残高の2割に迫るのに対し、日銀の場合、1割にとどまっています。
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古代エジプト文明は「世界史」の中へ

『古代エジプト文明』より

現代に時間が近づくにつれ、情報の量は圧倒的に増加する。同じ歴史学を学ぶ者・生業としている者でも、古代史と現代史とでは、その研究方法は基本から大きく異なっている。溢れる情報をかき分けて、ピースを拾い上げ、歴史的事実という名のジグソーパズルにはめ込む作業を紀元前の歴史を専攻する者に求めるのはあまりにも酷である。何よりもそのピース自体を探すことができない(あるいはすでにこの世には存在しない)のだから。世界中で日々行われている考古学者たちによる発掘成果のみが唯一の希望である。

しかしながら、現代史を専攻する研究者からみれば、大量の資料から必要なピースをみつけだすほうが至難の業であるという主張がなされるかもしれない。圧倒的な量の資料から目指すものを探し出すインテュイション=直観力を磨く現代史とは異なり、古代史は数少ない資料の裏側にあるかもしれない歴史的事実に対してイマジネーション=想像力を駆使する学問である。しばしば言われる「古代史を学ぶ者は、ロマンティストである」という言葉の裏側には、古代史におけるイマジネーションの必要性というものがあるのだ(しかしイマジネーションとファンタジーを混同してはいけない)。イマジネーションという言葉を前面に出し過ぎることにある種の嫌悪感を抱く研究者もいると思うが、たとえば「様々な形態で現存する資料を手掛かりとして、その原型のイメージを想い描く」のだと言い換えれば少しは納得していただけるであろうか。

本書ではナイル河谷とデルタ地域において発展した古代エジプト文明を中心に据え、その三千年以上の長きにわたる歴史の中で、我々によって「世界史」という名の下、大学教育以前の段階で認識されてきた人類の歴史の大きな流れとエジプトとが交わる点を探してきた。『世界史の源流』という副題は、その過程で生まれたのである。その歴史に三千年という長い時間的スパンを持ち、さらに地中海世界という古代世界の地理的中心で生まれ、発展した古代エジプト文明は、自然と「世界史」と接点を持ったのである。古代エジプト史は明らかに「世界史」の一部であり、古代エジプト史を無視しての「世界史」などありえない。

悠久の歴史を持つにもかかわらず、古代エジプト文明は、古代世界としては正確な暦を持っていた。この時間的に安定した縦軸こそが古代エジプト史を我々にわかり易くしている最大の理由である。そしてその正確な時間的縦軸を中心に周辺諸国の歴史が計られるのだ。結果としてエジプトと周辺諸地域・周辺諸国との交わり=「世界史」が明確になるのである。

本書の内容からもわかるように、古代エジプトの歴史は、異民族との関わりの中で展開されてきた。そしてその中でエジプトは様々な文化的影響を受けながら、自らの文明を育んできたのである。またエジプトは、西洋世界の母体となった地中海世界の一角を占めていたことから、「世界史」の中における重要なキーワードと容易に結びつくのである。たとえばミノア文明、ミケーネ文明、ヒッタイト、海の民、アッシリア、ペルシア帝国、アレクサンドロス、旧約聖書、ローマ帝国、キリスト教など、数え上げれば切りがないほどである。古代エジプトの歴史と文化は、そのような異民族・異文化との接触の中で発展を続けたことがここからもわかる。特にその文化形成に大きな役割を演じたのが、エジプトの周辺地域からもたらされた文化的情報であった。そして古代エジプト人たちは、長きにわたる歴史の中で、必要なものは受容し、不必要なものは切り捨てたのである。その取捨選択こそが文明の発展にとって重要であった。

たとえば社会人類学者クロード・レヴィ・ストロースは、文化形成の大きな流れの中における情報の選択こそが重要であるとして、次のように述べている。

断片的な事実というものだけに注意をうばわれてはなりません。西欧の文字はフェニキアに始まった、紙、火薬、羅針盤を発明したのは中国、ガラスと鋼鉄はインドに始まった……などというように、ものごとの起きた順序が、あまりにも重視されがちなものです。しかし、こうした個々の要素よりは、それぞれの文化がいかにそれらを結びつけ、取捨選択していったか、ということのほうが、重要なのです。

古代エジプト文明を育んだナイル世界は、最初の統一王朝が出現した紀元前三〇〇〇年頃、あるいはそれ以前から周辺諸地域からもたらされる情報の取捨選択を常に行なってきた。情報の取捨選択とその結果としての累積は、複数の異なる文化・民族を偉大なひとつの文明へと結実させたのである。

そして古代エジプト文明は「世界史」の中へ。
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グループでの意思統一

メーカーの論理とお客様の論理

 腰の部分でもって、上の層と下の層の関係が異なっても、それで動いていくということです。つまり、メーカーの論理とお客様の論理を腰である店舗でつなげていくことを意味している。個人の近傍化というのはものごとを集合で考えることができます。

グループでの意思統一

 グループでの意思統一するには、メンバーの和の部分とか積の部分とする考えはムリです。民主主義の最大の欠点です。

 別の概念として、個人が近傍として範囲を作り出します。その中で他人の範囲が重なった時に、それを接合していきます。周りを広げることができます。

 つまり、チェーン化でつながっていくというやり方です。グループでの意思統一ではなく、お互いが関係するところをつなげていく。それを同一のグループと規定すればいいのです。

 それぞれが役割を持つということです。一人の人がいなくなれば、役割はなくなります。それはチェーンが切れることを意味します。Facebookのマークが一番気にしたことです。一箇所が切れれば、全部が崩壊します。つながれば、何億の人間がつながります。

 意思統一ではなく、個人の関心事でつなげていくことです。人間が多くの関心事があります。多層的な関係の空間になります。

 個人ではそのイメージは気付きません。グループの方から見せていく方法が有効です。位相空間でいう所での、位相を表現する基本空間と同じ考えです。それを見本にすればいい。同一位相だから、自然につながります。

 その中で、Hでないけど、元々、グループができているところは、最初の手順を省くことができます。それを核にして、新しいグループができる可能性があります。店舗の活性化はそれをイメージしています。

 その時に組織のグループはあくまでも意思統一が主になっています。この考え方を変えていかないといけない。個人同士がつながって、強いカタチになっている。そういう店舗・スタッフにしていくことで市民との連係が可能になります。

部品表と未唯空間

 未唯空間で自分が存在する全てを項目別に、その項目をチェーン化しているので、こういうことは言える。あれ自体を置くと同時に、そこから波及させます。

 つまり、部品表でいうところのデータベースが未唯空間で、実際の活動のところはそれぞれの設計者が行ったり、生産技術が行ったりします。または、販売の時に、部品の補給を行います。これも部品表で習いました。

ネットの上に象を載せる

 Hの上に象を載せるのかと、Sは比喩していたけど、もっと、でかいものを載せます。Hの未来と社会の未来を載せます。ここから始まります。

 それぞれのバラバラの動きを方向づけるだけです。後はそれぞれを行えばいい。権力争いも含めて。名古屋のように、自分のことしか考えていない人間は省いていく。邪魔です。そうなると、パートナー以外はいなくなります。
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三段ループでコラボとライブラリ

階層の問題

 入社して、最初に習得したのが、階層の問題です。それも影響して、未唯空間もその構造になっています。それを昨日、考えていました。256の項目がキーになります。その属性を完結性を持たせてやると言うことです。

 256の項目にはそれぞれ意味を持たせています。組み合わせている。そのハイアラキーも含めて、関係づけています。ハイアラキーに対して、近傍系の考えを入れて、周辺という考え方で、つながるというトポロジーを実現している。

周辺を考える

 その周辺を考える時に、ThinkとAct、Glo9balとLocalの考え方を入れています。項目だけの関係ではなく、その周辺部分がThinkとActで絡んできます。

 考えたことをどう実現するのか、実現して得たものをどのように考えに反映するのか。これは真理に至る弁証法と同様な考え方です。

 今までやってきたことがこのようにつながることが、私にとって、一番の楽しみです。時間軸にすると40年間の思考です。表現するのは難しい。パートナーが分かってくれることはありえない。だから、未唯空間にまとめるだけです。分かる人が分かればいい。時間が掛かってもいい。その時点に私は居ません。

ロジカルチェック

 それにしても、部品構成に対して、ロジカルチェックを思い出します。仕様からグループを作り出して、それに整合性があるかを機械的にやっていた。事務電算の世界でトポロジーとか集合関係を使っていた。

 ほとんど、言語処理に近いものだった。それぞれの関係をロジックとして見ていった。私だけの世界です。その結果は有効だった。いくら、品番が確かでも、エアコンが付かなくなる。仕様で間違っている部分は全て抽出できました。それを30年前にメインフレームでおこなった。

三段ループでコラボとライブラリ

 Hヒアリング出てきた、三段ループというのは、この考え方をカタチにしたものです。お客様と店舗、店舗と本社、本社とメーカーの3つのループです。それぞれの循環は重なった所で情報を交換させます。

 その時に、大きな発見を行っている。登る方と下る方でツールが異なることです。お客様からの要望をコラボレーションでまとめて、それをコラボレーションでメーカーまで伝えます。直接、持っていくのもあります。下る方はライブラリで行います。そこに事実として、事例として、置いておけば、手間なく、拡大できます。

 コラボレーションとライブラリが相対であることを述べました。メーカー社内とH経営者に説明したが、誰一人、分かる人は居なかった。技術の連中なら簡単に分かるのに。私の中では数学的にキッチリと分けることができました。ライブラリとコラボレーションの関係が明確になると同時に、その重要性です。

意識と知識

 これは地域コミュニティにそのまま、採用できます。というよりも、この二つがないと、コミュニティは成り立ちません。それを環境社会のところで、一つの言葉を与えました。意識と知識です。意識がコラボレーションで、知識がライブラリです。

 これは環境社会の世界ではふつうに使っている言葉です。それにシステムなカタチをいれました。

 数学的な思考の特徴です。アナロジーです。余分なものを除くとアナロジーは見えてきます。余分なものをなくすには、トポロジーです。定性的なもので全部やっていきます。未唯空間で言いたいのは多分、これなんでしょうね。新しい分野でも、アナロジーを使えば、全体の関係が見えてきます。
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