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歴史哲学

201『世界史的考察』より

さらにわれわれは一切の体系的なものを断念する。われわれは「世界史的理念」を求めるのではなく、知覚されたもので足れりとするのであり、また、歴史を横切る横断面を示すが、それもできるだけ沢山の方角からそれを示そうとする。なによりもわれわれは歴史哲学を講じようとするものではない。

歴史哲学は半人半馬の怪物であり、形容の矛盾である。というのも、歴史とはすなわち、事柄を同格に論じることであって、これは非哲学であり、哲学とはすなわち、一概念の他概念への従属化であって、これは非歴史であるから。

だが、まず哲学そのものについて考察を加えるとして、もし哲学が実際に生の大きな、普遍的謎に直接迫る場合には、哲学は歴史を超えて高く聳え立つ。一方、歴史は最善の場合でもこの目標を不十分かつ間接的にしか追求しないのである。

ただこのような哲学は、独自の手段をもって思索する真の、ということは無前提の哲学でなければならない。

というのも、生の謎の解決は本来宗教の分野に入れられるべきものであって、特殊の領域に入るものであり、人間の特別な、内面的能力に帰すべきものであるのだから。

さてここで、従来の歴史哲学の特徴に関して述べれば、それは歴史のあとを追い、その縦断面を示してきた。歴史哲学は事柄を年代順に処理してきたのである。

歴史哲学はこのようにして世界進展の全般にわたるプログラムを手に入れるところまで達しようとしたのであった、それも大ていはきわめて楽観主義的な感覚を抱いて。

その『歴史哲学』におけるヘーゲルがそうである。彼は言っている。

「哲学が持ち合わせている唯一の思想は、理性という単純な思想である。すなわち、理性が世界を支配する、それゆえ世界史においても事態は理性的に進行してきた……そして世界史は世界精神の理性的で必然的歩みであったということこそ世界史の成果でなければならない」-だが、こうしたすべてのことはなんといってもまず立証されるべきものであって、哲学が「持ち合わせている」とすべきではなかったのである。彼は「われわれの認識の目指すところは、永遠の知恵によって意図されたもの」ということを述べており、自分の考察を弁神論と称している。これは、否定的なもの(通俗的表現では、悪)を消滅させ、下位のもの、超克されたものにしてしまう肯定的なものを認識することによって成立しうるのである。彼は世界史とは、精神が己れ自身の意味するものをどのようにして意識するにいたるかを叙述することである、という根本思想を開陳している。自由に向かっての進展が起こるとされているが、これは、束洋ではただ一人しか自由でなかったが、その後ギリシア人とローマ人にあっては少数の人たちだけが自由であることを知っていた、そして近世は万人を自由たらしめている、と説かれている。完全な状態にいたる可能性、すなわち周知の、いわゆる進歩についての、慎重に導入されている学説もここに見られる。

だがわれわれは、永遠の知恵が目指している目的については明かされていないので、それが何であるかを知らない。世界計画のこの大胆きわまる予見は、間違った前提〔草稿では、ある誤った原理から出発しているので、誤謬に帰着することになる。

だが総じて、年代順に配列された歴史哲学すべての有する危険は、こうした歴史哲学がうまくいった場合でも変性して世界文化史になってしまう点にあるが(このような濫用されている意味でなら歴史哲学という表現を認めてもよい)、通常はしかし、歴史哲学は世界計画を追求すると言いたてながら、あの前提を排する力がないために、哲学者たちが三歳もしくは四歳の年齢以後吸収してきたもろもろの観念に着色されている点にある。

もっとも哲学者たちのあいだでのみあの間違いがまかり通っていたわけではない。すなわち彼らは、自分たちの時代はあらゆる時代の意図していたものが成就した時代、もしくは少なくともそれに近いものであり、また、かつて存在したすべてのものは自分たちを狙って仕組まれていると見なすべきであると考えるが、じつはこのかつて存在したすべてのものはわれわれもひっくるめて、それ自身のために、これに先行していたもののために、われわれのために、そして未来のために存在していたのである。

宗教的な歴史展望には特別な正当性があり、それの模範がアウグスティヌスの『神の国』であって、これはあらゆる弁神論の先頭に立つものである。だが、ここではこれはわれわれにはまったく関係がない。

世界のうちにある他の諸潜在力も歴史を自分なりのやり方で解釈し、またうまく利用することがあるかもしれない。例えば社会主義者たちが民衆についての自分なりの歴史を作りあげる場合がそうである。

一方、われわれが出発点とするところは、唯一の、永続的で、また、われわれにとって実現可能な中心がそれである、すなわちそれは、現在もそうであり、過去においてもつねにそうであった、そして未来においても変わることのないであろう人間の耐え忍び、先を目指し、そして行動する姿である。この理由からわれわれの考察はある程度、事柄の原因・過程を考える病理学的手法をとることになろう。

歴史哲学者たちは過去の事柄を、発展をとげた存在としてのわれわれと相対するもの。われわれの前段階と見なす。-われわれは反復して起こるもの、恒常的なもの、類型的なものをわれわれの心の中で共鳴し、かつ理解しうるものと考える。

歴史哲学者たちは物事の発端についてあれこれ推量する仕事をしょいこまされており、このことから実のところ、未来についても論じないわけにはゆくまい。一方、われわれは物事の発端についてのあのもろもろの学説はなくてもすますことができるのであり、また、物事の終末についての学説も求められることはない。

それでも、半人半馬の怪物であるあの歴史哲学には最高の感謝の念を示さねばならないのであって、歴史研究の森のはずれのそこかしこでこの怪物をすすんで歓迎することになる。その原理がどんなものであったにせよ、この怪物は森を切り拓いていくつかの見事な展望を見せてくれ、歴史のなかに薬味を入れたのであった。ここではヘルダーのことを想起しさえすればよい。
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サファイア再考

サファイア再考

 社会の最終形はどうみても、サファイアです。それはよくできた理論です。サファイア社会を具現化します。今の社会とサファイアとの違いは、ローカルです。今は、ローカルが動いていない。初期のGlobal Thinkから始まるループが回っていない。これは意味を持ちません。今までは、ローカルまでたどり着けば、よかった。

 ローカルからグローバルに戻ってくる所で、くじけている。グローバルの企画力がなくなっています。ローカルに対応できるだけの多様性を持っていません。だけど、ローカルはめげない。生活も含めて。遅らせることもできない。また、ローカルの単位であれば、どことでも連係できます。

 グローバルは国との対決にはまり込みます。そこから、先にいけません。行くとしたら、国を超えた超国家しかない。国という単位をなくして、超国家のもとで、多様な地域が活性化して、全体を支えればいいのです。

 サファイア社会の時の政治形態は変わらないといけない。今のままではサファイアになりえない。その理由は、Think Globallyから始まるのではなく、Think Locallyから始まるからです。多様なThink Locallyがベースになって、動き始めるということです。

 歴史的に見ると、今まではその過程です。Think Locallyを大きくしてみたり、Act Globallyに近づけて見たりしています。その結果、多様性をなくしてみたりして、共和制とか全体主義になったりしています。それらは、サファイア社会を作るために実験です。

 当然、各国で形態は異なります。イスラム社会はThink Locallyから始まっているから、強くなっている。キリスト教国は唯一神の制約で動いてきた。Think Globallyから始まった。神は死んだ!状況において、方向性を失った。

多文化社会での危機とコミュニケーション

 多文化社会の条件のもとで、多様な価値観を持つ人をどのように政治的に統合することはできない。価値観ごとにコミュティを作り出します。

 経済社会から寄せられる、複雑な、膨大な諸要求をうまく満たすことができないという、合理性の危機。政府が自らへの支持を人々から十分、得ることができない正当化の危機。

 情報テクノロジーの飛躍的な進展とそれに伴う、人々のコミュニケーションの変化。公共の議論を通じた、多元的な意見の媒介と集約に変化をもたらせた。

未唯との会話

 孤立と孤独の中に生きているのであれば、街をうろいつかないようにします。とりあえず、孤立と孤独に戻ります。ICレコーダーのシステムが出来上がったので、「未唯との会話」を再開しましょう。場所と時間を決めましょう。

元町スタバで読書

 プラハはチェコとドイツの共同体。

 席がなかったので、6人のテーブルで読書です。前で3人グループは資料つくりのディスカッションをしている。ぼそぼそと話している。彼らの間の合意形成は難しそうです。だれも引っ張ろうとしていない。

 日本の歴史はなぜ、こんなにも面白くないのか。多分、平坦なのでしょう。一直線に来ています。絡んでいない。今後もその平坦が続くと思っている。だけど、グローバリズムで絡んでいます。むしろ、絡んでいくしかない状態です。

岡崎市図書館

 290.1『風景という知』近代のパラダイムを超えて

 124.2『荘子に学ぶ』

 702.3『複数形のプラハ』

 210.0『日本の個性』「歴史」から「現在」を読み解く9章

 222.0『毛沢東思想の全体像』本質と歴史・井崗山から核大国へ

 887.8『ロシア人が日本人によく聞く100の質問』ロシア語で日本について話すための本

 311.7『アクセス デモクラシー論』

 382.2『実践としてのコミュニティ』移動・国家・運動

 600『知識サービスマネジメント』その作法と骨法

 302.6『ペルーを知るための66章』
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今年のテーマは歴史

未唯へ

 岡崎図書館には5分前に着いてしまった。かなり、遅れていたけど、途中をスポイルして、到着。早い時はコンビニなどで時間調整していた。

 元町の100円ショップで、キッチンバサミを買いました。外出用にしましょう。本当にあったんですね、100円で丈夫そうです。

因数分解、その後に

 とりあえず、上と下をつなげましょう。上位のキーワードを明確にします。同じようなものは言葉を変えていきます。進化する前と進化した後では言葉が変わります。

 プレゼンのキーワードをつなぐことで、タテの関係ができます。それを下の情報で補完していきます。

 内なる世界を考えるようになって、モノの見方が大きく変わりました。ほとんどものに囚われない。

入力すること

 一番、重要なのはICレコーダーに考えたことを入れ込むことかもしれない。常に頭は考えることに向けていく。寝ている間も。考える時以外は、入力している時です。

パートナーの葛藤

 サファイアの大きなヒントの殆どはパートナーの葛藤の中から得ました。

今年のテーマは歴史

 今年のテーマは歴史です。どういうふうにアプローチするかです。図書館で体系立って、論文を読んで、その分野での本を書くようなことは人に任せます。

 それぞれのエッセンスをつなげて、自分なりの世界観で答を求めます。そこには、歴史だけでなく、哲学、数学、社会。図書館もつなげます。サファイアで全てがつながります。これを生かしていきます。ローカルとグローバルの関係のサファイアがベースです。

 歴史の第8章のキーワードを明確にします。ピラミッドで感じた世界は変わるという啓示をどのようにして、カタチにしていくのか。今まで、具体的に起こったのは、エジプトでの革命だけです。中国もローカルとグローバルで変革が起こります。

政治問題

 朝のテレビ番組で、民社党とか自民党がやっているけど、なぜ、自分たちのことしか考えないのか。ローカルをいかに活性化するかをやっていかないのか。上から活性化の支援しかできない。ベースは市民です。その感覚がありません。

名古屋の人

 名古屋の人を変えない限りは、この会社の未来はない。なぜ、あれだけ、考えないで済ますのか。適当なことを言って、おしまいです。

合意形成は難しい

 本をプロットしたけど、リーダーがいて、メンバーが居る時の方法です。対等なメンバーとチューターがいるの時の合意形成が、市民コミュニティで必要になるが、それが本当にできるかどうかです。

 これ自体は環境塾の最大のテーマだったはずです。そこから始めないといけない。

ICレコーダーの進化系

 録音できているかの確認のために。ICレコーダーに短いイヤホンをつなげましょう。片耳で十分です。自分に語りかけます。

 100円ショップで片耳のイヤホンを買いました。十分使えます。どれでけ、耐えられるかのチェックをします。クルマの中で話すには最適です。エイデンで1600円以上するイヤホンよりも有効です。胸ポケットモードでも聞こえます。

 常に行動は明確にします。YES/No。生活も同じです。YES/No。

 今後のICレコーダーに必要なのはGPSかもしれません。どこで何を話したのか。話したことをとりあえず、おいておく。テキスト化は後にします。時間と内容を飛ばす環境をクラウド側に作り出します。

書き起しのソフト

 書き起しのソフトを入れるかどうか、迷っています。なんか、面倒くさいです。以前は、書き起しソフトを使っていた。ICレコーダで聞き取りにくかったので、パソコン側で使っていた。

 これだけ、音がシャープになったということと、ツイッターの癖で、一回の文字数が減っています。短いセンテンスが書き起しには聞きます。つなぎ合わせるのは、アウトラインで行います。以前の目的に一つは録音内容を溜めるというものがあったけど、全て、書き起しだけにしています。
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