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世界を変えたい夢をつなぐ

ブログへのコメント

 埋めればいいというものではない。iPad2で、自分のブログへのコメントを開始しました。その名はμです。μはいくらでもコメントできます。私の内にいるのですから。

 Yahoo!側はコメントを止めました。

未唯へ

 今日は一言も話していません。「30分」だけです。この内容は、明日の水戸駅のタクシー乗り場に12時半にしましょう、ということを表しています。

 スルーの白いワイシャツ。風変わりです。

世界を変えたい夢をつなぐ

 サファイア社会を前面にします。その時に、世界を変えたい、ジョブスとかマークの夢を実現させます。つなげていくことです。

 根本としてのサファイアです。市民に対しての知識と意識。地域活性化へのツールに彼らの夢をカタチにしましょう。何ができるか。知識と意識を変えるための道具がメインになります。

 一番のポイントは内なる世界に持ってくることです。誰がいなくても、済むようにします。内なる世界で全て、自分の中で作るしかない。それが合っていようとも、間違っていようとも。

 哲学者は皆、そうですよ。カントにしても、合っているとか間違っているのか関係なく、I thinkです。周りがいかに考えていないのか、多分、彼らも考えていないでしょう。そういう連中に聞くことはない。一応、聞きましょう。

心をリリースできない

 ヨーロッパを旅するときぐらいしか、心がリリースされることはない。

概念を提案

 この際に、色々な提案を考えましょう。未唯空間を具体的なモノとくっつけるだけです。その意味では知の出口です。地域活性化で近傍化とかコミュニティ化の概念を提案します。

時間をつぶさない

 考える時はつねに考える。それ以外の時は休んでいる。後は、考えるための準備です。これに時間が掛かっている。まともなツールが出てくることを期待する。

無知なる世界の社会

 今の所、サファイア社会を目指しているけど、内なる社会としては、さらに拡張ができる。今は、コミュニティを作り出すところまでのイメージ止まりです。作り出したコミュニティからいかに社会を変えるのか、ところまでいかないといけない。

社会編のシナリオ

 社会編にコミュニティから社会を変えるところにシナリオを追加します。新しい企業と行政の姿は社会構造側に持っていきます。3.4で片付けます。3.4は社会を変えるのだから、市民活動ではなく、新しい企業と行政を入れます。

歴史編のシナリオ

 4.8は内なる歴史に全面的に変えます。今は社会編とあまりにも同じになっています。それは社会に任せます。超民主主義も含めて。内なる歴史としては、政治形態がどうなっていくのか、価値観が同一なものが統合したり、分裂したり、国の関係になっていきます。結局は人に戻ることになります。そちらを書きます。

パートナーとランド

 パートナーにとって、ランドは何だったのか。一切聞きません。私には何も話さないでしょう。

 仕事編はあまり抽象的にはしません。5.7はお客様とつながること、そのためにすることを書くだけにします。

仕事編のシナリオ

 5.8は店舗の活性化から地域の活性化に持っていくために、何が必要なのか。仕事編では新しい民主主義には言及しません。

 コミュニティの一つのパターンとして、店舗との連携の部分を書きます。それをしながら、企業の変革をしていくことになります。下から上への変革です。

 今年のミッションは店舗の活性化と地域への活性化への道。それとネットワーク設置とその後の姿をわかりにくく書きます。彼らが理解しなくても、事実ですから、そのうち、その流れに巻き込まれるでしょう。その時にわかりゃいいんです。

個別編の再構成

 個別テーマの第8章をそれぞれの社会編と仕事編に戻します。新しい8章を作ります。

コミュニティのツール

 次期のライブラリは考え方だけは示して置きます。ライブラリの定義を拡大すれば、それに関わる人はいくらでもいます。一番はそれぞれの人の状況です。グループには欠かせない情報です。これがないと動けないライブラリです。

 状況が分かれば、学習に展開できます。そこから、専門家が生まれます。フェイスブックでコミュニティを考えていきます。道具はやはり、iPadです。これを使いこなす環境を作れば、老人ホームも変えられます。残しておきたいのは彼らの知識です。

 関係ないもの同士をつなぐ訓練。それを図示化する
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文化大革命

『キッシンジャー回顧録 中国』より

国家的緊急事態が起きかねないこの時期に、毛沢東は中国という国家と共産党を破壊することを選んだ。彼は伝統的中国文化の頑強な残直に対して、最後の攻撃となると考えた運動を発動した。その残直の破片から、新たな、イデオロギー的に純粋な世代が立ち上がると、毛沢東は予測した。それは内外の敵から革命の大義を守るために、十分な心構えのできている世代だった。彼は中国を、一〇年のイデオロギー的熱狂、容赦のないセクト政治、内戦に近い状態に駆り立てた。これがプロレタリア文化大革命として知られるものだった。

どんな組織も、次々に起きる大激変の波から逃れられなかった。北京からの政治宣伝で駆り立てられた「大衆」との暴力的な対峙の中で、国の至る所で地方政府が解体された。中国共産党や人民解放軍の著名な指導者たちが、革命戦争の指導者たちも含め、粛清され、公開の場で恥辱にさらされた。それまで長い間、中国の社会秩序のバックボーンだった教育制度は立ち往生し、若い世代が国を放浪して、毛沢東の「革命をやることで、革命を学ぼう」という呼び掛けに呼応することができるように、授業は無期限に中止された。

突然、東縛を外されたこうした若者たちは、紅衛兵の各セクトに加わった。紅衛兵とは、イデオロギー的熱狂で結び付けられた若者の武装組織で、超法規的に、また通常の組織構造の外で(多くの場合、それに露骨に反対する形で)活動した。毛沢東はそうした活動を、「革命無罪」「司令部を攻撃せよ」といった、曖昧だが扇動的なスローガンで支持した。毛沢東は若者たちが、今ある共産党の官僚主義や伝統的な社会慣習を暴力的に攻撃することを認め、「無秩序」を恐れず、ぞっとする「四旧」、すなわち古い思想、古い文化、古い風俗、古い習慣の撲滅のために戦うようけしかけた。毛沢東主義者の考えでは、この「四旧」が中国を弱体化させているのだった。人民日報は「無法を称賛する」という社説で、炎を煽った。それは、調和と秩序という中国の一〇〇〇年来の伝統を、はっきりと、政府公認で非難したものだった。

その結果生じたのは、人間の、そして制度の、甚だしい惨状だった。中国の権力機関、公的機関は、共産党の最高階層を含め、一つ一つ、十代のイデオロギー的突撃隊による攻撃に屈服していった。それまでは学問や博学を尊敬する文明として知られていた中国は、下克上の世界となり、子供は両親に反抗し、学生は教師を残忍に扱い、書籍を燃やし、専門家や高官は、文字の読めない小作農から革命的実践を学ぶために、農場や工場に送られた。紅衛兵や彼らと組んだ市民たちー嵐を生きながらえようと、手当たり次第に紅衛兵のセクトを選んだ者もいたーが、中国の古い「封建的」秩序へ戻る兆しとなりそうなあらゆる目標へ怒りを向け、残酷なシーンが国中で展開された。

こうした攻撃目標の中には、何世紀も前に死んだ人々もいたが、彼らが歴史上の人物だからといって、攻撃の激しさが弱まることはなかった。北京の革命的学生と教師は孔子の郷里の村に押しかけ、中国に対する古代聖人の影響に決定的に終止符を打つと称して、古い書籍を燃やし、記念碑を打ち壊し、孔子とその子孫の墓を破壊した。北京では「重要文化歴史地点」に指定された首都の六八四三ヵ所のうち、四九二二ヵ所が紅衛兵の攻撃で破壊された。紫禁城は周恩来が個人的に介入したことで、ようやく救われたと報じられている。

伝統的に儒教知識人エリートによって統治されてきた社会が、今や、知恵の源泉として、教育のない農民に頼ることになった。大学は閉鎖された。「専門家」と見なされた者はみな疑われた。専門的能力は危険なブルジョア的概念たった。

中国の外交姿勢はぐらついた。ソ連圏に対して、西側諸国に対して、自国の文化や歴史に対して、手当たり次第に怒りまくる中国を、世界はほとんど理解に苦しむという目で見ていた。海外にいる中国の外交官やその補助職員たちは、駐在国の市民に対して革命を呼び掛け、「毛沢束思想」を講義して熱弁をふるった。七〇年前の義和団の乱さながらに、紅衛兵の群れが北京にある大使館を襲った。英国外交公館は略奪され、逃げまどうスタッフは殴打され、性的な暴行を受けた。英国外相が陳毅外相に書簡を送り、英国と中国は「外交関係を維持しながらも……当面、互いの首都から外交使節団と人員とを引き揚げ」るよう提案したが、中国側からの返答はなかった。中国外相自身、国内闘争で批判を受けており、回答できなかったのだ。最終的には、一人の大使-有能でイデオロギー的に申し分のなかったカイロ駐在の黄華大使-を除くすべての中国大使と、約三分の二の大使館スタッフが本国に呼び戻され、田舎での再教育を受けさせられるか、革命活動に参加させられた。中国はこの時期、数十カ国の政府と派手な紛争を引き起こしていた。中国が本当に前向きな関係を保っていたのはたったIカ国、アルバニアだけだった。

文化大革命の象徴は、毛沢東の言葉の引用を集めた、小さな赤い「毛沢東語録」だった。一九六四年に林彪が編纂したものだった。林彪はその後、毛沢東の後継者に指名されたが、クーデターを試みたとされ、中国から逃げる際に、真相のはっきりしない航空機の墜落で死亡した。すべての中国人は「毛語録」を一冊、持ち歩かねばならなかった。紅衛兵たちは「毛語録」を振りかざしながら、北京の許可の下に、少なくとも黙認の下に、中国全土で公共の建物を「奪取」し、地方の官僚機構に暴力的に挑戦した。

しかし紅衛兵たちは、自分たちが純化しようとした幹部だちと同様、革命が自分たちの頭上に降りかかってくるというジレンマに免疫がなかった。公式の訓練ではなく、イデオロギーで結束した紅衛兵たちは、自らのイデオロギー的、個人的嗜好を追求するセクトになっていった。紅衛兵のセクト間の戦闘があまりに激しくなったので、毛沢東は一九六八年には紅衛兵を公式に解体し、地方政府再建のために党と軍の忠実な指導者を配置した。

若者世代を農民から学ばせるために、遠く離れた田舎に送り込む「下放」という新たな政策がはっきりと打ち出された。この時点で、中国で指揮系統が機能している大きな組織は軍だけだった。軍は通常の業務範囲をはるかに超えた役割を引き受けた。軍人は破壊されっくした政府省庁を動かし、農場の面倒を見て、工場を経営した。これらすべては、国家の防衛という本来の任務に加えて行われた。

文化大革命が直接与えたインパクトは壊滅的だった。毛沢東の死後、第二世代、第三世代の指導者たちー‐ほとんどすべてが、さまざまな場面で被害を受けていたーが行った文革評価は、非難に満ちていた。一九七九年から一九九一年・まで、中国の中心的指導者だった小平は、文化大革命は組織としての中国共産党をほとんど壊滅させ、共産党への信頼を少なくとも一時的には破壊したと主張した。

近年、個人的な記憶が薄れるにつれて、別の見解がためらいがちに現れ始めている。この見解は、文化大革命の中で大いなる悪行がなされたことを認めながらも、毛沢東はおそらく重要な問題を提起したのではないかーたとえ彼の出した答えが悲惨なものだったとしてもーと、問い掛け始めている。毛沢東がはっきりさせようとしたとされる問題とは、現代国家、特に共産主義国家と、それが統治する大衆との関係である。主に農業中心の社会においては、そして初期の工業社会においても、統治が関心を持つのは、一般大衆が理解できる範囲内の問題である。もちろん貴族社会においては、ここで言う大衆の範囲は限られている。しかし、その統治に公式の正統性があるかどうかは別にして、もし統治がまったくの押し付けでないならば、命令を実行する人々による、何らかの暗黙の意志一致が必要である。統治が押し付けならば、そうした統治が歴史上の一定期間にわたって維持されることは、まずない。

現代において難題なのは、諸問題が非常に複雑になったため、法的な枠組みが徐々に理解不可能なものになっていることである。政治システムは命令を発するが、執行はその大部分が官僚機構に任される。その官僚機構は政治プロセスからも大衆からも切り離されており、周期的に行われる選挙によってさえ、コントロールされてはいない。米国においてさえ、重要な法律はしばしば数千ページにわたっており、甘く見ても、細部まで目を通している議員はごくごく少数である。特に共産主義国家では、官僚機構は、自分たちで定義した手順を遂行するに当たって、自分たちだけのルールを持つ自己完結型の単位で動く。

政治階層と官僚階層の間には溝があり、これら二つの階層と大衆の間にも溝がある。このようにして、官僚主義的モメンタムによって新たな高級官僚階層が現れる恐れがある。一度の大規模な攻撃でそうした問題を解決しようとした毛沢束の試みは、中国社会を壊滅の瀬戸際に追いやった。中国人学者で政府顧問の胡鞍鋼は最近の著書で、文化大革命そのものは失敗だったが、それは一九七〇年代末から一九八〇年代の小平改革の土台をつくったと論じた。胡鞍鋼は、現在の中国の政治制度における「政策決定システム」を、より「民主的で、科学的で、制度化されたもの」にする方法を探るため、文化大革命をケース・スタディとして使うよう提案している。
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権力を握ったチャベス

『探究』より

権力を握ったチャベス

 四二歳の陸軍中佐が、果たして国を治められるのだろうか? チャペスは民主主義者なのか、それとも独裁者なのか? 当初の発言では、それか曖昧だった。「私を従来の分析基準で評価しようとしたら、ぜったいに困惑から抜けられないだろう」チャペスはそういった。「チャペスは右翼なのか、中道なのか、左翼なのか、社会主義者なのか、共産主義者なのか、資本家なのか--そのいずれかだと決め付けようとしたら、どれにもあてはまらない。だか、それらすべての要素かすこしずつある」べつのときには、こうつけくわえた。「レッテルを貼られたり、小さな枠をはめられたりすることは、絶対に拒否する。墓場にはいるまで拒否する。政治や思想を幾何学のような絶対的原理にあてはめるのは受け入れられない。私にとって左翼、右翼というのは、比較の問題だ。私は多くの要素を含んでおり、私の思考はすべてをすこしずつそなえている」

 どういう思想を抱いていたにせよ、チャペスは迅速に行動して、すべての権力を掌握した。「虫に食われている」と自分が評した正統な政府機構は温存しつつ、独立した機能はすべて奪った。新しい機構を強引に進めて、議会の上院を廃止した。残された下院は判子をつくだけの機能しか持だされなかった。最高裁判事を二〇人から三二人に増やし、増員分はすべて革命主義者にした。国家選挙管理委員会を大統領直轄の組織とし、今後の投票の集計をじかに管理しようとした。議会による軍の監視を撤廃し、都市部の予備役から成る第二の軍隊を創設した。そして、国名をベネズエラ・ボリバリアーナ共和国に変更した。

 チャペスは勝ち誇ってキューバを訪問し、そこで宣言した。「ベネズエラは、キューバ国民とおなじ海に向けて航海をはじめます。幸福と真の社会正義と平和を目指す旅です」カストロと協調した--いや、ほんとうに野球をした。チャベスがベネズエラーチームのピッチャーをつとめたが、キューバが五対四で勝った。キューバは、もうひとつのものも勝ち取った--ペネズエラの補助を。ソ連の共産主義が終焉すると、ロシアはもはやキューバとの思想的な絆を持たなくなり、石油を安価で供給するのをやめた。そこヘチャペスか登場して、カストロの石油銀行家になり、大幅に値引きした石油を提供することになった。

 その見返りとして、キューバは各種の人的補助-社会福祉労働者、教師、ジムの教官、さまざまな偽装をして活動する各種の保安要員を提供した。一九六〇年代の〝暴力の時代〟にベネズエラのゲリラを援助していたキューバは、ふたたびベネズエラに足場を築いたわげだった。カストロはベネズエラの石油の富に食指を動かし、何度も海岸堡を突破しようとした。一九六七年にはキューバ軍をベネズエラに侵入させようとして、カストロ専属の保安部長か死んでいる。だか、今回、キューバは、チャペス政権を支援することになる。チャペスのほうも、地方を支配するのにキューバの方式を取り入れた。「革命か反革命か、ふたつにひとつだ」と、チャペスは宣言した。「反革命は殲滅する」厳しい対決姿勢を和らげるようにと、カトリック教会の司教たちが説くと、チャペスは彼らを「祭服を着た悪魔」だとして斥けた。

 カストロは、さまざまな面で手本になった。キューバ国家評議会議長として、五、六時間も演説をつづけるのが得意だった。チャベスはそれをまねて、日曜日の午後のテレピ演説〈もしもし大統領〉を発足させた。四時間以上にわたって、熱狂的な于不ルギーを発散させ、冗談をいったり、革命歌を歌ったり、子供のころの逸話を話したり、野球について語ったりした。政敵を腐敗していると非難し、自分はアメリカあるいは彼のいう「北米帝国……地球上で最大の脅威」に対抗する革命前衛の指導者だとした。それと同時に、南米を解放した一九世紀の偉人シモン・ボリバルの衣を身にまとい、「二一世紀のための社会主義」の新理論を打ち出した。

 そして、そこにはベネズエラ国家のたましいである石油があった。ベネズエラ経済の原動力であるPDVSAを、チャペスはすばやく掌握した。強硬なナショナリズム的石油政策を唱える、ドイツ生まれのエネルギー・エコノミスト、ベルナルド・モンマーの影響を強く受けていた。ペネズエラは「リベラル政策」の食い物になっているから、緊急にそれを逆転させなければならないと、モンマーは主張していた。チャペスはPDVSAを「国家内の国家」だと攻撃し、専門家が経営していた会社を政治問題化し、国に従属する組織に変えた。PDVSAの資金は国の金庫にされ、チャベスは会社の財務管理を中央政府に移管して、莫大な収入をじかに支配できるようにした。説明責任や透明性は失われた。チャペスは好きなだけ金を使うことかでき、石油産業への投資を、社会保障予算、国内の親密な組織の支援、国内と国外での政治目標の追求など、なんであろうと自分が最善と判断する目的にふりむけた。ペネズエラは、これまでにも増して、石油国家に成り果てた。

石油の回復

 チャペスが行なった決定的な政策変更は、世界中に影響を及ぼした。ペネズエラは、もはや増産による収入増加という戦略をとらなくなった。生産を縮小し、割当量を護ることを、OPEC加盟国として強く主張した。

 原油価格が回復しはじめると、チャベスははっきりいい放った。「原油価格上昇は、戦争や満月の結果ではない。前政権やPDVSAの政策を一八○度変更するという、合意の上の政策がもたらしたのだ……ベネズエラに思慮深い政府があることを、いま国際社会は知っている」

 チャペスは、OPECを重視する石油政策を打ち出したか、じつはチャペスが就任する前の一九九八年のリヤド協議以降、ベネズエラは減産に転じていた。そもそもベネズエラは、大きな動きのなかのひとつでしかなかった。収入が急減したOPEC加盟国すべて(と非加盟国数カ国)は、割当量と規制を忠実に守るようになっていた。

 それに、全体像もまちかいなく変わっていた。OPECが生産を引き締めている間に、アジアが回復しはじめた。需要が急に戻った。価格も回復した。この石油危機-産油国側の危機-は、終結しつつあった。

 一バレル一○ドル以下という価格を暗漕と見つめていた産油国は、目標を二二ドルないし二八ドルの〝価格帯″に置くと、自信をもって発言するようになっていた。だが、二〇〇〇年秋、アジアの回復とOPECの新政策により、原油価格はその価格帯を超えて、バレル三〇ドルを突破した。わずか二年前にくらべて、三倍の上昇だった。需要の急増(一九九八年から二〇〇〇年にかけて、一日二五〇万ハレルもの伸びを示した)が、石油市場に決定的な影響をあたえていた。

 マスコミがいうこの「原油価格の急騰」は、たちまち低価格に慣れていた石油消費国の警戒を呼び覚ました。消費国は「起こりかけているエネルギー危機」を恐れていた。その不安に煽られて、二〇〇〇年のジョージ・W・ブッシュとアル・ゴアの白熱した大統領選挙戦では、原油価格上昇(と、それが押しあげたガソリンと家庭の暖房用燃料の価格)が、論戦の話題になった。原油価格が衝撃的な一バレル三七ドルに達した二日後の九月二二日、クリントン政権は戦略石油備蓄の一部を放出し、冬か来る前に価格上昇を鈍らせようとした。

 そのころには、ウゴ・チャペスはすでに、世界の石油と西半球で、地歩を固めていた。しかし、一九九七一九八年の原油価格崩壊かなかったら、クーデターか失敗して投獄されてからわずか七年後に、ペネズエラのために「責任を担う」(数十年前に士官学校の候補生だったときに日記に書いた言葉)ことかできたかどうかは、定かでない。いまやチャベスは、一〇〇年前の独裁者シプリアノーカストロ将軍を真似て、ベネズエラの版図をひろげ、中南米全域を制覇しようとするボリバル主義革命をもくろんでいた。しかし、カストロ将軍と異なるのは、世界に手をひろげていたことだ。そして、原油価格の上昇は、それをためす資力をチャベスにあたえるはずだった。
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