goo

Googleのない世界

『街場の読書論』より

中国政府の検閲の停止を求める交渉が決裂して、Googleが中国から撤退することになった。

香港経由で検閲なしのサービスを開始するが、すでに香港版サイトには中国本土からの接続が困難になっている。接続者の殺到によるものか、中国政府の妨害かはまだわかっていない。

「Googleがない世界)に中国が取り残された場合、それがこれからあとの中国における「知的イノヴェーション」にどれほどのダメージを与えることになるのか、今の段階で予測することはむずかしい。だが、この「事件」によって中国経済の「クラッシュ」は私が予想しているより前倒しになる可能性が高くなったと私は思っている。

中国の経済成長はいずれ停滞する。

それは不可避である。

これまで右肩上がりの経済成長を永遠に続けた国は存在しない以上、中国の成長もいずれ止まる。その成長をブロックする主因は、「知的イノヴェーション」の重要性を見誤ったことにある。

中国の危機は「著作権」についての施策において予兆的に示されている。

ご存じのようにかの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通しており、コピーライトに対する遵法意識はきわめて低い。それによって、現在のところ中国国民は廉価で、クオリティの高い作品を享受できている。

国際的な協定を守らないことによって、短期的には中国は利益を得ている。

けれども、この協定違反による短期的な利益確保は、長期的には思いがけない国家的損失をもたらすことになると私は思う。

それは「オリジネイターに対する敬意は不要」という考え方が中国国民に根付いてしまったことである。

誰が創造したものであろうと、それを享受する側はオリジネイターに対して感謝する必要も対価を支払う必要もない。黙って、コピーしてそれを売って金儲けするのは「こっち」の自由だ。国民の多くがそういう考え方をする社会では「オリジナルなアイディア」をもつことそれ自体の動機づけが損なわれる。論理的には当然のことである。

「新しいもの」を人に先んじて発明発見した場合でも、それはエピゴーネンや剽窃者によってたちまちむさぼり食われ、何の報奨も与えられない。それが「ふっう」だという社会においては、「オリジナルなアイディア」を生み出し、育てようという「意欲」そのものが枯死する。

みんなが「誰かのオリジナル」の出現を待つだけで、身銭を切って「オリジナル」を創り出すことを怠るような社会は、いずれ「そこにゆかなければ『ほんもの』に出会えないもの」が何もない社会になる。

「オリジネイターに対する敬意」をもたない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノヴェーション」は起こらない。

イノヴェーティヴな人々はもちろんどこでも生まれるけれど、彼らは「中国にいても仕方かない」と考えるからである。だって、彼らのイノヴェーティヴな才能の創造した作品は、公開されたとたんに剽窃者に貪り喰われてしまうからである。彼らはうんざりして、オリジナリティに対する十分な敬意と報酬が約束される社会に出て行ってしまう。

中国は欧米先進国のテクノロジー水準に「キャッチアップ」する過程で、緊急避難的に「オリジネイターに対する敬意」を不要とみなした。百歩譲って、そのことは「緊急避難」的には合理的な選択だったと言ってもいいかもしれない。

けれども、それは社会生活の質がある程度のレペルに達したところで公的に放棄されなければならない過渡的措置である。中国政府はどこかの時点で、この「過渡的措置」を公式に放棄し、人間の創造性に対する敬意を改めて表する機会をとらえるべきだったと思う。

けれども、中国政府はすでにそのタイミングを逸した。

創造的才能を「食い物」にするのは共同体にとって長期的にどれほど致命的な不利益をもたらすことになるかについて、中国政府は評価を誤ったと私は思う。

Googleの撤退も同じ文脈で理解すべきだと思う。

これは「クラウド・コンピューティング」というアイディアそのものが中央集権的な情報管理政策と両立しえないという重い事実を表している。

私たちは久しくIBMとアップルのモデルに準拠して、「中枢管理型のコンピュータ」と「パーソナルなコンピュータ」が情報テクノロジーにおける根源的な二項対立図式だと思ってきた。

Googleはそのモデルさえもがもう古くなったことを教えてくれる。

世界は情報を「中枢的に占有する」のでもなく、「非中枢的に私有する」のでもなく、「非中枢的に共有する」モデルに移行しつつある。

これは私たちがかつて経験したことのない情報の様態である。

そして、これが世界標準になること、つまり私たちの思考がこの情報管理モデルに基づいて作動するようになることは「時間の問題」である。

中国政府は近代化の代償として、情報の「中枢的独占」を断念し、市民たちが情報を「非中枢的に私有する」ことまでは認めた。けれども、そのさらに先の「非中枢的に共有する」ことまでは認めることができなかった。「雲の上」を中国共産党以外にもう一つ認めることについての強い政治的抵抗が働いたからである。

Googleの撤退が意味するのは、一情報産業の国内市場からの撤退ではない。そうではなくて、ある種の統治モデルと情報テクノロジーの進化が共存不可能になったという歴史的「事件」なのである。

情報テクノロジーの「進化」と切断することがどれほどの政治的・経済的・文化的ダメージを中国にもたらすことになるのかは計測不能である。それは国産の情報テクノロジー「ミニテル」に固執したせいで、インターネットの導入が遅れ、そのせいで、巨大な社会的損失をこうむったフランスの直近の例とは比較にならない規模のものになるだろう。

隣国の「没落」がいつ、どういう形態で、どの程度の規模で始まるのかについて、リアルでクー一四〇字の修辞学

Twitterに「愚痴」、ブログに「演説」というふうに任務分担して、書き分けることにしたら、ブログヘの投稿が激減してしまった。

たしかにTwitterは身辺錐記(とくに身体的不調の泣訴や、パーソナルな伝言のやりとり)にはまことに便利なツールであるけれど、ある程度まとまりのある「オピニオン」を書くには字数が足りない。わずかな字数でツイストの効いたコメントをするというのも、物書きに必要な技術の一つではあろうが、「それだけ」が選択的に得手になるのは、あまりよいことではない。

というのは、「寸鉄人を刺す」という僅諺から知られるように、「寸鉄」的コメントは破壊においてその威力を発するからである(「寸鉄人をして手の舞い足の踏むところを知らざらしめる」というような言葉は存在しない)。

何より、一刀両断的コメントは、書いている人間を現物よりも一五〇%ほど賢そうに見せる効能がある。だから、一刀両断的コメントの名人に「引き続き、そのテーマを五〇〇〇字ほど深めていただきたい」と頼んでも、出てくるものはずいぶん無惨な出来栄えであろう。

むろん、「寸鉄型」コメンテイターだって、物理的に「長く書く」ことはできる(同じ話を繰り返せばいいんだから)。でも、それでは読んでいる方がすぐ飽きる。長く書いて、かつ飽きさせないためには、螺旋状に「内側に切り込む」ような思考とエクリチュールか必要である。

そして、そのためには「前言撤回」というか、自分か前に書いたことについて「それだけではこれ以上先へは進めない」という「限界の告知」をなさなければならない。おのれの知性の局所的な不調について、それを点検し、申告し、修正するという仕事をしなければならない。

それがないと、「内側に切り込むように書く」ということはできない。

前言撤回を拒むものは、出来の悪い新書の書き手のように、最初の五ページに書いてあることを「手を替え品を替え」て二五〇ページ繰り返すことしかできない。最初の五ページに書いてあることのうちにはすでに情報の欠如があり、事実誤認といわぬまでも事実評価に不安かあり、推論上の不備があるということを、「最初の五ページを書いている、当のそのときに」開示できるものだけが、「内側に切り込む」ように書くことかできる。私はそう思っている。

「寸鉄型」のコメントに慣れるものは、それによって得られるわずかな全能感の代償として、多くのものを失う。自分の命をかけられるような命題は一四〇字以内では書けない(一四〇〇字でも、一万四〇〇〇字でも書けないが)。だから、そこに書かれる言葉は原理的に「軽い」ものになる。

誤解してほしくないが、私は「軽い言葉」を語るなと言っているわけではない。

「軽い言葉」だということを自覚して語ってほしいと言っているだけである。

というようなことを書くと、「ふざけたことを言うな」というご批判が早速あると思うが、如上の理由により、私宛てのご批判は「五〇〇〇字以下のものは自動的にリジェクト」させていただくので、みなさまの貴重なプライペートタイムはそういうことに浪費されぬ方がよろしいであろう。
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民主主義のあり方をも変える

『「日本」の売り方』より

「協創力」は民主主義のあり方や政治の仕組みも変えていくかもしれない。というのは、政治の仕組みに、前節で触れた「文殊の知恵」を活用していこうとする試みが、日本でも最近さかんだからだ。

民主主義にもとづく政治の仕組みには、実は二通りある。

ひとつは「代議制民主主義」だ。選挙で自分たちの代表を選び政治の舵取りを任せる。選挙で選ばれた代表が議会へ行き、多数決で政策を決める。典型はイギリス議会に始まる西欧型の「議会制民主主義」だ。このような多数決にもとづく民主主義を「集計民主主義」とも呼ぶ。この仕組みでは、数は力である。しかし、多数決を巡っての争いが先鋭化し、厳しい党派対立を招くこともある。そして、少数派の意見は採り上げられないことが多い。

もうひとつは「熟議民主主義」だ。市民が自由にある課題について平等な立場で集まり直接議論を交わす。お互いに受け入れ可能な理由付けで主張や好みを変化させていき、お互いに納得できる結論を得る。典型は、古代ギリシャのアテネの直接民主政だ。この仕組みでは、数は関係ない。対立する立場への理解を深め、当初持っていたメンバーの意見が変わり、熟成されていき、新しい政策が提案されることに意義がある。しかしそのプロセスには時間がかかり、一度に集まることができる人数も限られている。『市民の政治学』(岩波新書)を著した篠原一・東京大学名誉教授は、この民主主義の仕組みを「討議デモクラシー」と呼んでいる。

後者の「熟議民主主義」は、「協創力」を使った政治手法だ。人々が集まり、議論をしていく過程で参加者の好みや主張が変わり、集合知が新たな政策を創発するからである。熟議民主主義に詳しい田村哲樹・名古屋大学教授は著書『熟議の理由』(勁草書房)で、議論への参加者の理性と議論による主張の変容を、「熟議民主主義」の核心と指摘している。

多数決では、時に不毛とも言えるまでに先鋭化する党派対立を超えることはできないのではないか。このような疑問が、「熟議民主主義」への人々の関心を深めている。エイミー・ガトマン・ペンシルベニア大学学長・教授らの著書『なぜ熟議民主主義なのか』によれば、「反対している相手の行う議論への尊敬」が「熟議民主主義」の成功の秘訣だ。さきほどのウィリアムスーウーレイ助教らによる「集合知」の実験結果にも一脈通じる話だ。フラットな「場」でお互いの議論を尊重しながら「協創力」を活用するとき、思いもつかなかった斬新で創造的な政策が生まれるのだろう。

一度に集まる人数が限られる、議論に時間がかかる、などの「熟議民主主義」の欠点は、インターネットやブログなどの情報テクノロジーを活用することでかなり補えるようになっている。

日本でも「熟議民主主義」を社会実験したり、試行したりする動きがあちこちで見られるようになってきた。文部科学省が専門のウェブサイトを二〇一〇年四月から立ち上げて始めた「熟議カケアイ 文科省政策創造エンジン」もそのひとつだ。「熟議カケアイ」では、文科省の政務三役がまず「お題」を示し、熟議のためのコミュニティをウェブ上に設置する。メンバー登録をした者は、誰でもフラットな立場で議論に参加できる。ただし、議論の参加に当たっては五か条のルールを守る必要がある。そのルールには、理解しよう、挨拶しよう、わかりやすく伝えよう、人を傷つけないように、共感や考えの変化も書こう、などと「協創力」をメンバーが出しやすい工夫が書きこまれている。懇談会という「オフ会」も開かれる。熟議は一か月をメドに終息し、中央教育審議会などの公式の政策形成プロセスと。はパラレルに、文部科学省の政策創造に活かされるという。

原子力発電や地球温暖化など、問題が高度に技術的で、かつ主張が真っ向から対立しやすい問題。熟議民主主義は、それらの合意形成促進にも使われる。

デンマーク生まれの「コンセンサス会議」がその一例だ。別名「市民パネル」としても知られるこの会議の枠組みは、高度なテクノロジーを熟知した専門家と一般市民が合流するのが特色だ。「専門家対市民」という、ありかちな不毛な対立に陥ることを避ける。そして、科学技術アセスメントにより、ひろく社会に受け入れられる解決策を、ともに模索していく。この参加型システム分析による協創の枠組みは、国の科学技術政策の立案や地方自治体の政策審議などにも、近年取り入れられつつある。

「協創力」は日本のビジネスや社会の価値変革だけでなく、公共政策設計の現場にも活用が始まっている。
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