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数学のセンス

私の役割

 私の役割は先を見て、考えることです。言い得て、妙があります。行動することではない。それがどういう意味を持つのか。それがどうなっていくのか。それに対して、あなたはどうしないといけないのか。というとこです。行動をなくすことで答が出てきます。

 ネットワーク会社に対しても、同様のスタンスで臨みます。実際に行動するのはパートナーです。ファシリテーターの技術を営業スタッフに渡します。パートナーはファシリテーターからインタープリターになっていきます。そういうプロセスです。パートナー以外にメーカーで当てになる人間は居ない。

 その時に、ネットワーク管理部署は十分、使わせてもらいます。Hシステムの枠を超えるには、彼らの力が必要です。グローバル・アクトが動くにはローカル・シンクが必要です。グローバルとローカルをつなぐ部分をパートナーに渡します。グローバルとローカルの動きが悪ければ、私は存在を掛けて、動かします。

数学のセンス

 パートナーの数学的な感覚があれほどあるとは思って見なかった。ネットワーク会社のSEの能力を超えています。私の幾何のセンスとは異なり、解析のセンスです。計算の方です。もっと数学の方に向かっていたら、色々なことができたのに。中野さんとおなじです。

 私の幾何の空間認識能力はかなりのモノです。なにしろ、無限次元に生きていたのですか。

世の中の邪魔なもの

 病院の待合室のテレビで放映している、いい加減なコメンター。それを見ている、何も何が得ていない老人たち。イヤになるほどの時間です。

店舗の活性化を店舗で考える

 店舗に人が来るにはどうするかを、店舗で考えていた。珍しく、スタッフが寄ってきた。私の素性を知らないみたいです。この店舗には15年前から出入りしています。無線LANのテストをしたこともあります。追い払うために、顔見知りのスタッフと新車の売れ行きについて話しました。まあ、どうでもいいことです。

 若干、人は来るようになっていると言ったが、見る所、フロントの中のスタッフの人数の方が多いですね。こんな店が活性化できるには、スタッフが変わらないといけないが、イメージがわかないですね。

 リアルとバーチャルの融合しかない。バーチャルで誘導して、リアルの店舗とスタッフで対応するやり方ですね。スタッフの活性化なくして、リアルはないでしょう。それはグローバルとローカルの癒合です。グローバルでできるのは、リアルの世界ではできません。バーチャルが主です。

 新車は高いですね。290万円もします。子供が居ない40歳代後半が購入するみたい。会社では女性に人気があるみたいです。走り屋でしょうか。そういえば、中野さんも裾野を走り回っていた。店舗の活性化という雰囲気ではない。店の中に車が置いてあってはダメです。カフェにしないと。それとどこでも図書館でないと、落ち着かない。

昨日、借りた豊田市図書館の19冊です。

 268.04『インカ帝国』研究のフロンティア
 538.09『技術を育くむ 人を育てる』特集次世代宇宙輸送機 JAXAのプロマネ座談会 日本の宇宙産業vol.3
 709『世界遺産なるほど地図帳』
 331.87『貧乏人の経済学』もういちど貧困問題を根っこから考える
 333.8『「国際協力」をやってみませんか?』仕事として、ボランティアで、普段の生活でも
 318『一番やさしい 地方自治の本』
 019.9『街場の読書論』
 021.43『死ぬまで編集気分』新日本文学会・平凡社・マイクロソフト
 617.3『おいしいコーヒーの経済論』「キリマンジャロ」の苦い現実
 202.3『国名に秘められたおもしろ世界史』国名の意味とルーツを知れば、驚きの歴史物語が見えてくる!!! 世界地図を見るのが。ますます楽しきなる本!
 400『新しい科学の教科書 化学編 』新しい科学の教科書 現代人のための中学理科
 312.53『たちは“99%”だ』ドキュメント ウォール街を占拠せよ
 290.93『ケアンズとグレートバリアリーフ』大珊瑚礁が創ったもうひとつの世界
 302.53『これからどうなる?アメリカ』米国が抱える危機が、日本や世界に及ぼす影響とは---
 810『<小説>東大過去問・現代文』
 933.7『タイムマシン』ウェルズ
 913.6『さして重要でない一日』
 952.6『サロメ』ワイルド
 910・26『だれもの人生の中でとても大切な1年』よしもとばなな
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民衆とのつながりの中で

『イスラムを生きる人びと』より 〝アラブの春〟とイスラム再興

革命後のエジプトでは唯一の巨大政治組織となった同胞団だが、組織防衛志向の保守的な指導部には内外からの強い圧力がかかる。民主的選挙を通して、政治を主導するようになれば、組織内をまとめる党人派や、年功序列のヒエラルキーで幹部を選んでいては通用しない時代になる。「イスラムこそ解決」の中身と実践を問われる時代である。その時、八○年代の職能組合運動で同胞団以外の人々と関わった経験を持つ四〇代、五〇代の中堅指導者層と、さらに、エジプト革命でもっと広く、外の世界と触れた二〇代、三〇代の若者たちが存在することは、同胞団が進化し、発展するための動力となるはずだ。私は、同胞団が強権のもとでの抵抗組織から、国民政党に脱皮する道は、普通に考える以上に簡単ではないと考える。脱皮できなければ、同胞団本体は次第に国民の支持を失うことになるかもしれない。その場合、同胞団の思想を基盤にしながらも、国民に開かれた政党を目指すワサト党や若者たちのエジプト潮流、ナフダ党がより大きな支持を得るようになるかもしれない。民主主義の時代に、国民の支持を得るかどうかは、同胞団が独自のネットワークで支持者を集めるようなこれまでのあり方ではなく、政権に参加して、国民の問題を解決していくために政党としての役割を果たすかどうかである。

女性代表のスピーチはプログラムでは「女性同胞団員」とだけ記され、名前は出ていなかった。壇上にド(五六)だ。「イスラムは女性に市民的権利と政治的権利のすべてを与えている」と強調した。さらに同胞団の創設者ハサンーバンナー師の「我々は女性たちを男性を扱うのと同じように扱う」という言葉を引用し、「エジプト革命を機にこの言葉に立ち返るべきだ」と訴えた。会場では前列左側に二〇〇人ほどの男性が陣取っていた。全国各県の同胞団支部で女性の問題を仕切る事務担当者はすべて男性だ。男性が女性のお目付け役のような存在になっている。会議の後半で行われたバディーア団長と女性たちの対話では、様々な要求が次々と出たという。「各県の女性問題の担当を女性にする」「いまは女性に投票権がない地方や中央の評議会の選挙に女性の参加を認める」「中央指導部に女性メンバーを入れる」-などだ。

二〇〇五年の選挙では同胞団がハハ議席を得て躍進したが、当選した女性議員はI人もいなかった。同胞団で女性の発言権や地位が外から見えないことについて、同胞団関係者は「前政府の弾圧から女性メンバーを守るためだった」と説明する。しかし、ムバラク体制の崩壊で、その心配もなくなった。男性中心の組織運営をしてきた同胞団にとっては、大きな課題となる。その初めての試金石だった二〇一一年一一月から一二年一月にかけて行われた人民議会選挙では、自由公正党の比例区の女性候補はI〇人のうち一人の割合でしかなかった。この数字は、他の政党と比べて決して低い数字ではないが、七章で紹介した社会活動家のアッザーガルフのような草の根を担う女性活動家が地域で果たしている役割を知れば、彼女たちにもっと機会を与えるべきだと感じる。アッザ白身は、大カイロ市の西部に位置するギザ県の比例区の自由公正党リストー○人のうち四番目に位置づけられ、当選した。選挙で当選した女性議員は計八人で、うち自由公正党が四人だった。アッザは新議員の一人となった。

選挙期間中に、アッザがスピーチをすると聞いて、ギザ県で開かれた自由公正党の選挙集会をのぞいた。野外に設定された集会場はぎっしりと人が集まり、ステージの上に候補者がならんだ。アッザは一番左に座っている。大音響の司会の声がマイクから響く。「アッザーガルフがあなたたちに女性の役割と、彼女の選挙への参加について話します」と紹介した。マイクを持って立ち上がったアッザは「司会者は私が女性への言葉を述べると言いましたが、私は女性への言葉は言いません。私は女性だけでなく、すべての人びとにとっての候補であるからです。私たちの党をつくる男性たち、女性たち、イスラム教徒、キリスト教徒、そのすべてに向けて話しましょう」と演説を始めた。まず、取り上げたのは経済と雇用問題だ。「昨日のニュースで、革命の後、エジプトで四二〇〇の工場がつぶれたというニュースを見ました。労働者が職を失い、失業は深刻な問題になっています。自由公正党は長期的な国家プロジェクトとともに、経済専門家の意見を聞きながら、人びとの日々の雇用につながるような短期的なプロジェクトに力をいれます」。続けて、「エジプト人がきちんとした生活をおくるためには三つのことが必要です」と言い、①すべてのエジプト人に及ぶ医療保険、②国民誰もが受けられる医療サービスの充実、③公教育を充実させる教育改革、と課題をあげて、「これらはすべて政府が無視していたものだ」と語り、党としての取り組みを述べた。

そして、「革命を完成させるために、すべての男性、女性、若者が自分の権利を主張しましょう」と呼びかけた。「しかし、私たちはタハリール広場で権利を主張するのではありません。投票所に行って、自分の意思で選んだ候補に投票するのです。以前は、選挙が終わったら候補者は事務所のドアを閉じました。しかし、これからは違います。私たちが選ぶ議員は、私たちのために週七日間、事務所のドアを私たちのために開いておかねばなりません。議員は私たちの痛みと問題を知らねばなりません。そして、私たちの損なわれた権利を回復するために政府に立ち向かわねばなりません。なぜなら、私たちに選ばれた議員なのですから」

アッザは選挙に参加する意味を力強く訴えかけた。一般の人びとにとって、公の場でアッザの演説を聞くことは初めての経験だっただろう。アッザの名前は彼女が二七年間、草の根の慈善運動を続けてきた地区以外ではほとんど知られていない。しかし、「議員は人びとの痛みと問題に開かれているべきだ」という言葉は、人びとの貧困と苦悩を助け、イスラムの教えを実践してきた彼女の生き方からくる実感として人びとに受け入れられたことだろう。
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「イスラム的解決」とは何か

『イスラムを生きる人びと』より 〝アラブの春〟とイスラム再興

アラブ世界の宿病のようになっていた強権体制が〝アラブの春〟によって打倒された後、民主化によって「イスラム的解決」を掲げるイスラム主義者が選挙で躍進し、政治の表舞台に出てきた。それらのイスラム勢力を理解するためには、「イスラム的解決」とは何かを知ることが必要であろう。中東でのイスラム再興の流れの中で、注目されているのが、トルコでイスラム主義の流れをくむ公正発展党(AKP)である。AKPは二〇〇一年の経済危機の直後の二〇〇二年に総選挙で勝利した。党首のエルドアンは二〇〇三年に首相となり、二〇〇七年、二〇一一年と三度の総選挙で勝利し、トルコに安定政権をもたらした。さらに経済も建て直し、二〇一〇年には八・九%の経済成長率を達成した。公正発展党を強力なリーダーシップで引っ張るエルドアンは、一九九〇年代は、よりイスラム色の強い福祉党の若手リーダーだった。九四年に福祉党イスタンブール支部長としてイスタンブール市長選挙に当選すると、大都市が抱える懸案に取り組んだ。道路整備と電車、フェリー航路など公共交通機関を充実させて、長年続いていた道路渋滞を大幅に緩和させた。さらに水不足による断水が問題となっていた水問題についても、新たな水源から水道を引くことで解決した。ゴミ収集を毎日にして、市内は見違えるようにゴミがなくなった。さらに、冬の間、石炭を使うために大気汚染が大きな問題だったが、天然ガスヘの切り替えで汚染は大幅に改善された。イスタンブール市の女性センターのように、冬場に石炭を使っている貧困家庭への石炭の支給などイスラムの教えに通じる貧困対策も実施した。エルドアンは市長になる前に福祉党イスタンブール支部長として、女性メンバーによる貧困家庭の家庭訪問を始めた。それを市長時代の市政にも導入したのである。

行政経験の全くない人物が一〇〇〇万を超える人口を抱えるトルコ最大のイスタンブール市の市長となり、次々と都市問題を解決したことで市民の支持を得て、その成功が、その後、国政を担う道を開いた。トルコはオスマントルコ帝国の伝統を受け継いで官僚制が強いお国柄であり、エルドアンは官僚機構とは全く関係ない市井の人が首相になった初めての例である。イスタンブール市長と首相時代に報道担当として働き、引退後にエルドアンについての評伝を書いた側近のフセイン・ベスリによると、「エルドアンは官僚制と対決することは最初からしなかった」という。市長になると、まず自分の政策スタッフに市民が抱えている問題を調査させ、その解決策についても専門家に意見を聞かせた。解決策を決めると、イスタンブールの担当部署にその実施を指示した。あくまで「問題解決」優先の姿勢を貫いた。

ベスリによると、「エルドアンは部下に対して、常に厳しく結果を求める。問題を解決して、結果を出すという現実的な姿勢は、首相としても一貫している」と語る。トルコの主要銀行の一つデニス銀行の主任エコノミストのサルハン・オゼルは「エルドアン政権は情報収集に非常に積極的だ。私はイスラム主義者でもなんでもないが、経済の責任者が直接私にも意見を聞いてくる。決定は迅速で、対応は妥当で、責任あるものだ」と語る。彼の言葉からも、経済担当者が首相のエルドアンから「経済振興で結果を出せ」と求められているのだろうと想像がつく。積極的な経済振興策をとり、政府が主導して、中東やアフリカ、アジアを輸出の市場として開拓する政策が、国際的な金融危機や欧州経済危機という逆風の中での高い経済率を達成した秘密となっている。

エルドアンが属した福祉党は九八年に憲法の世俗主義規定に反するとして非合法化され、解党命令を受けた。後継政党の美徳党も二〇〇一年に禁止された。その後、エルドアンは公正発展党を結成した。公正発展党の綱領には、イスラムという言葉はひとことも出てこない。世俗主義を掲げ、自由主義経済政策をとる中道右派の保守政党を名乗った。福祉党の時代は、欧州連合(EU)加盟には否定的な態度だったが、政権をとると一転して、積極姿勢に転じた。さらに米国と強い友好関係も築いた。首相になった後、記者会見で態度の変化を問われると、「私の世界観は世界の変化に応じて変わった。道徳観は変わらないが、もう昔の私ではない」と言い切った。

世俗主義を掲げ、イスラムと政治の分離の原則を維持するトルコだが、イスラムの流れをくむ公正発展党は、積極的に民衆の間の問題を解決しようとしていることが分かる。私はこれまで、イスラム社会にとって、人びとの間の「問題解決」がいかに重要かを見てきた。そのためにイスラムの教えがあり、イスラム宗教者の役割がある。イスラムでは何かの問題を抱えている人に対して、「アッラーが解決してくれますよ」「アッラーが助けてくれますよ」という表現が、何通りもある。もちろん、問題を解決するのは人間であるが、問題を解決すること自体が、「神の名において」「神の教えに従って」行われる。問題が解決した時には、イスラム教徒は「ハムド・リッラー(アッラーのご加護で)」と神に感謝する。ムスリム同胞団が「イスラムこそ解決」というスローガンを掲げるのは、このような文脈においてなのである。それは同胞団だけでなく、民衆の支持を得て、民衆の問題を解決しようとする新政党「エジプト潮流」をつくったイスラム・ロトフィらが言っていることと似ていると感じた。エルドアンはアラブ人ではないが、いま、アラブ世界でも最も人気のある指導者である。エルドアンをあつかったアラブ語の本も数冊出ている。口トフィの発想は、エルドアンの公正発展党から学んだ部分もあるだろう。エルドアンの側近のベスリが著したエルドアンの評伝は、二〇一二年一月に同胞団系の出版社からアラビア語版が出版された。

エルドアンは二〇一一年九月に、エジプト、チュニジア、リビアと、アラブの春で強権体制が崩壊した三カ国を歴訪し、各地で英雄のような歓迎を受けた。エジプトでは現地のテレビ局のインタビューで、「エジプトは世俗憲法を持つ、世俗国家になるべきだ。世俗主義とは宗教に敵対するのではなく、特定の宗教に偏らないということだ。政治が宗教を名乗る必要はない」と語った。これについて、エジプトのムスリム同胞団の報道担当のグズランは「内政干渉だ」と反発する談話を出した。同胞団の副団長のラシャドーバイユーミによると、エルドアンのエジプト訪問中、団長のバディーアと前団長のマフディ・アキフは、エルドアンと二時間にわたる会合を持ったという。バイユーミ自身は会合に同席していないが、「会合については幅広い問題で意見交換をし、実り多いものだった」とした。その上で、「エルドアンが語った世俗主義は、エジプトでは反宗教的と受け止められるため、受け入れることはできない。しかし、エルドアンのトルコでの成功が参考になるのは、ゴミ収集を増やしたり、交通を改善したり、国民が肌で感じられるような変化をもたらすということだ」と語った。

同胞団の中堅世代を代表するアブドルモネム・アブフトゥーフに二〇一〇年一一月の選挙の時に、トルコの公正発展党について話を聞いたことがある。「トルコのイスラム政党が発展できたのは、軍の強い影響で政党が潰されても、別の政党をつくる自由と、選挙に参加する自由があったからだ。エジプトにはその二つともなかった。ワサト党は九六年に政党申請をしたが、いまだに認められていない。トルコでは軍によるイスラム主義勢力への圧力があったが、すべてを拒否するのではなく、イスラム政党に解党命令を出しても、別の形で政党をつくることはできた。政治的なせめぎあいが続いたことが重要だ」と語った。アブフトゥーフはエルドアンより五歳年上の、ほぼ同じ世代だ。八○年代に、アブフトゥーフらの世代はエジプトの職能組合の選挙に参加して運営を次々と押さえ、野党との協力で人民議会にも進出して、野党では第一政党になった。

アブフトゥーフ自身は一九八〇年代に同胞団が医師組合の選挙に進出して勝利した時、最初の事務局長となった。当時は、エジプトの同胞団の新世代の躍進が、中東のイスラム運動に刺激を与えた。福祉党時代は同胞団との交流も盛んだったから、エルドアンがアブフトゥーフらの躍進をまぶしい思いで見ていた時期があったはずだ。しかし、九〇年代から二〇一一年まで、エジプトの同胞団は強権の下で抑えっけられ、身動きがとれなくなった。その間に、トルコのエルドアンは変身し、飛躍した。二〇〇〇年以降、エジプトとトルコの立場は逆転したが、エジプトにも革命によって政党創設の自由と民主主義がやってきた。ムバラクの辞任後、真っ先にイスラム主義政党のワサト党が政党として認可され、元同胞団員のアブエラーマーディが党首となり、党員登録を始めた。アブフトゥーフは同胞団を離れて、大統領候補として立候補する準備を進めている。アブフトゥーフを支持しているのは同じく、同胞団を離脱してナフダ党を創設したイブラヒームーザファラーニだ。ナフダ党には二〇一〇年春まで同胞団副団長だったムハンマド・ハビブが団を離脱して発起人として名を連ねた。
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