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ファシリテーションとインタープリテーション

ファシリテーションさせていく

 ファシリテーションというのはグローバルの悩みをローカルにつなげます。お互いが一気につなげてしまうことはできない。色々な組合せを考えていかないと。

 手順としては、まず、一番意識の強い我々、グローバルから行為者である、ネットワーク会社の営業の意識を変えていきます。ファシリテーションさせていきます。

 Hのことを思い、店舗レベルまでの情報を集めて、提供する。そこからキャッチボールが始まる。切替日時をHに示すことで、切替のことを具体的に考えてもらう。営業が主導権を握るのではなく、相手に主導権をわたす。従来の営業行為と異なり、これは革命です。

 ここでいう、グローバルのグローバルとかローカルのグローバルとかは相対的なものです。逆転もありえます。何しろ、グローバルのグローバルとローカルのローカルがつながっているということは一つの環になっています。サファイア循環そのものです。これはファシリテーションのための定義です。

インタープリテーション

 インタープリテーションになってくると、本当に、ローカルからグローバルへの直付けです。この構造図をどう表現していくかです。現実なところと具体的なところを合わせていきます。グローバルのグローバルとローカルのローカルが同一ということに皆が感性としてついてこれるか。

私の心の中

 私の場合は宇宙の端と自分の心の中とがつながっている実感を20年前に感じた。「心はどこにありますか」と聞かれた時に、直感した。それが続いている。どこまで、広がったものが自分の中に来るということ、自分の中の見ていけば、宇宙全体に広がること、それが自然の感覚になってしまった。そこで囲まれた世界が内なる世界になっていった。

 行動しない私にとって、全てが仮説です。それでいかに考えるかのヒントです。

パートナーに求める

 パートナーに求めているのは、ファシリテーターからインタープリテーターになること。そのために何が必要なのか。それを考えていかないといけない。本人が考えればいいけど、そんなことを言えば、干渉ととられます。

 ローカルとグローバルの関数としては逆になります。

 ファシリテーターの一番の要素はグローバルにいながら、ローカルを感じることです。個別なことで、支援しながら、やるべきことの汎用化を考えることです。

この時代に生まれた

 この時代に生まれたことの意味。戦後です。環境の真っ最中です。環境の決着がついた時に生まれた人間がどう役割を考えるのだろうか。その中で生きていくしかない。単純にそういうことかもしれない。その中で次のことを考えていくしかない。我々が、全てのキャスティンボールを握っているようなつもりでいるけど、そんなことはありえない。

 それにしても、何故にこの時代に生まれてきたのか。この時代に生まれてきたので、育つに従って、道具が揃ってきた。この道具をどう使えというのか。

 図書館ですら、そうです。あのまま、裾野にいたら、今のような環境は考えられない。おかげで、図書館にはさまざまなアプローチができ、先の姿を描くことができた。そこから得たものは、本を含めて、大きい。

無為であること

 「無為」が私のキャッチフレーズにしたのは、20歳代です。その「無為」に仏教の意味があることを知りました。「諸本無常」です。「諸行無常」よりも大きな概念だそうです。

 「有為」に「無為」を加えているそうです。無為には因果律を超えたものがあり、原因と結果の世界ではない。これは絶対的な存在につながるかもしれない。未唯に対する態度です。
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ネットワーク展開での正義

未唯へ

 昨日のスタバのコロンビアは合わなかった。今日はパイクにしようとしたが、ケニアにしました。大陸が違うからいいでしょう。

ネットワーク展開での正義

 どのようにして、グローバルはローカルを支援するという名の行動を起こすか。本来、活性化していないところは他っておけばいいけど、グローバルの特性は平等性です。平等という名の押し付けをしていきます。

 これをネットワークの展開のところで考えていきます。展開するのはネットワーク会社の営業部隊です。展開に際しては、コスト的にはいいけど、店舗のネットワーク遮断という制約があります。それも3ヶ月前に日時を決めて、止めてもらうというロジックでいきます。

 その時に、Hには、止めないのが正義だと思い込んでいる人に対して、グローバルでの正義をどう説明していくかです。これを明確にしないと、ネット停止日時が決まらない。これは一緒に脅しですけど、将来の姿からすると、これは正義です。その確信を持たないと維持できない。

 それを我々は言えるけど、ネットワーク会社の営業は言い切れない。これが問題です。彼らは正義のためではなく、お仕事として、利益のために行動している。

 では、どういう手段でもって、展開させていくのかを考えています。行為者はパートナーです。

 営業だけで考えても答にはならない。ボリュームに圧倒されるだけです。Hに考えてもらうことです。先ず、自分たちが持っている情報をローカルに渡すことです。その理由は、何が起こるのか。それをローカルの身になって考えてもらうことです。

 ローカルはグローバルから提供されているインフラを考えているわけはない。使えて当たり前の世界です。次期ネットは販売店に考えてもらいたいために企画しました。そのために、H経営者に対して、ヒアリングをしました。

 経営者は危機感はあるけど、その先の姿は見えていません。Hの中のローカル・グローバルでは指示が行き届いていません。ローカルのローカルの反応が恐くて、ローカルは動けない状態です。

 我々のグローバルにしても、その上のグローバルである、営業本部はそんな細かい仕事は自分の仕事だと思っていない。次の姿を営業本部は描いていない。その意味では、グローバルのグローバルとローカルのローカルは一緒です。共に動けない状態です。

 だから、我々グローバルとHのローカルで事実を作って、両端に展開するしかない。行為はそのためにあります。行為で、ローカルが分かります。

 こういう認識で、ローカルのローカルとグローバルのグローバルを使っていって、それぞれが同じ認識であること、真ん中であるローカルとグローバルで変えていくしかない。それをお互いに伝播していく。

 グローバルのグローバルの営業本部の方が、先行きを心配している筈です。ローカルのローカルの販売店の店舗・スタッフはお客様との接点で、このままでいいのかと考えると、変わることを意識するでしょう。
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緩やかなつながりが大きな運動に

『インターネット・デモクラシー』より インターネットはどのような政治形態をつくるか

インターネット利用者は、大した考えもなくウィキペディアに「参加」した。彼らは、自分たちが気づいた綴りのミスを正し、自分たちが知っているテーマについて、不完全あるいは間違いであると思った記述に修正を施した。次に、自分たちの記述が正確かどうか、書き込みをする人々と話し合い、他人の書き込みが正確かどうかを注視し、百科事典の書き方のルールについて研究しはじめた。すると、さまざまなテーマの記事を書く人々が現われ、彼らが百科事典のもつ共同体の利益を担うようになった。つまり当初は、誰も自分が「ウィキペディアン」になるとは思いもしなかったのである。

インターネットの「コミュニティ」が成立するのは、メンバー同士の目的が一致した場合のみである。そのイメージは、村落や部族などのイメージとはまったく異なる。つまり、デジタルな集団に魂を見出そうとして、あるいは領土的な感覚を得るために、コミュニティとしての声明を出しながら自分たちを活性化させようとするのではない。

インターネットのコミュニティは、集団に対する帰属意識など持たない個人が活動した集合体の結果であり、コミュニティの将来、そのアイデンティティ、それへの帰属などといった従来型のモデルから生じたのではない。インターネットの大きなコミュニティの大部分は、とくに信念を持たない者たちが相互に影響し合った結果であり、その前提になるのは、個人による自身のアイデンティティや、趣味、活動の公開である。コミュニティのメンバーは、互いに影響をおよぼしあうために、そして「緩やかな」協働に関与するために、各自が自己を公開することによって提供される機会を利用する。

フリッカーでは、自分たちの街角にある監視カメラを写真に納めたアマチュアのカメラマンが、世界的な規模で団結した。彼らは、監視カメラの世界的な目録を作成するために、ウェブで自分たちが撮った写真を、種類ごとにタグをつけて分類した。自由と安全をめぐる議論に敏感な一般市民のなかには、他者とのコンタクトのあり方について、活発に意見を述べる者も現われた。「緩やかな協働」は、人間関係の強化や価値観の形成という手間のかかる作業を通じて、実際に「強い」関係となり、現実世界における集団的な手法によって、行動の可能性や手段を得ることさえある。

だが、集団のこのような形成手法は、脆弱で非組織的であると考えることもできる。メンバーになる個人は、目的ごとに自発的に集まり、時間的にも内容的にもきわめて限定的な関与しかしないというやり方によって、集団を生み出すことは可能であろう。だが、これではウェブを媒体とする集団活動のほとんどの場面で限界が生じる。

インターネット利用者は、管理についてはほとんど議論しない。彼らが論争を作り出したり、人々を動員したりするために情報をつかみ取る方法は、相変わらず予見できない。したがって、「草の根」から集団を構築するために、参加型民主主義の論理からヒントを得たネット合議制を実践しようとしても、それは困難かつ非効率的である。公的機関が主導するネットでの市民討論は、むしろ期待はずれに終わったケースがほとんどであり、きわめて強い関心をもつごく一部の市民だけが参加するにすぎない。こうした市民討論では、想定された枠組みを超えて議論がおこなわれることが仮に認められたとしても、その効果はかなり限定的である。

このような困難のおもな原因は、インターネットでの集団形成のあり方にある。ネットでの討論では、あるテーマについて討論するための共通の価値観を事前に共有している参加者を、市民のなかから招き入れることが難しい。ネット討論へ参加を希望する市民は、行動して協力できる体制を構築して団結したいのだ。彼らは、そのような実験の場を要求している場合が多い。つまり、こうしたきわめて柔軟で自主的な参加形式の目的は、当局の監視下で討論をおこなおうとすることではなく、専門知識の領域を組織し、当局と対等に議論できる、さらには当局に異議申し立てのできる領域を作り出すことにある。したがって、当局の役目は、議論の流れを誘導するのではなく、インターネット利用者たち自身が議論できる条件を整えることだけになる。
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キーワードは「自己組織化」

『インターネット・デモクラシー』より インターネットはどのような政治形態をつくるか

何でもありのインターネットからは、どのような政治や理性的な議論が生まれるのだろうか。自己を公開するという傾向の表われである、インターネットでの混乱したおしやべりは増殖し続けているが、これはどのような意味をもつのだろうか。決定の中枢や代表、組織化された集団は、どこにあるのだろうか。従来の公共空間から眺めると、インターネットは「バベルの塔」に似ている。すなわち、騒がしく過剰で統治不可能なインターネットでは、議論や噂が絶えず錯綜し渦巻いている。

このような批判に対するインターネット利用者の回答は、自己組織化ということである。インターネット利用者はこの混乱を、水平的かつ非中央集権的な方法によって、自分たち自身で統治できると主張している。彼らは、参入障壁を完全に撤廃して開放的な状態を維持すべきであって、人々の能力を事前に決めつけるべきではない、という平等の理想を掲げている。彼らはネットで互いに指摘しあう活動を通じて、情報が人目に触れる領域を秩序づけるために、情報の種類によって、アクセスしやすい情報からしにくい情報へと、情報を階層化している。彼らは互いに監視しあい、また批判しあうことにより、中央集権的な機能を構築することなく、巨大な共同体を存続させようではないか、と主張している。彼らは一貫して共有を推進しながら、電子化された新たな共有財を共同体の中核に据えた。これらの共有財は、全員によって生み出されたのであって、誰かに帰属すべきものではない、と彼らは考えている。

このような態度は、インターネットの先駆者たちの精神の流れを汲んでいる。また、こうした原則は世間知らずな夢物語などではなく、フリー・ソフトウェア、ウィキペディア、オープンーディレクトリー・プロジェクト、クリエイティブーコモンズのライセンス、インターネットが利用する大部分の技術の標準化を策定するインターネットーエンジニアリングータスクーフォース(IETF)などでは、前面に打ち出されてきた。

しかしながら、インターネットが大衆化されたのにともない、ウェブと、従来型の公共空間にある機構(メディア、政党、企業など)との結びつきが密接になり、互いの依存関係が強まってきたため、これらの原則は危うくなっている。今日、新聞、政治、ビジネスの変化の中核にあるインターネットは、創始者たちの理念に反する価値観と利益に向き合わなければならない。インターネットにより、文化と情報に関する産業基盤は覆されてしまったという批判もあるが(例えば無償化についての議論の枠組みにおいて)、インターネットもまた自らの領域において、インターネットが逃れようとした関係者や論理の犠牲になっている。したがって、インターネットは、現在の緊迫した状態から抜け出すために、その方策の特徴を明らかにする必要がある。

平等の前提とクリックという参加形式

 ウィキペディアでは、記事の内容に異議を唱える際、あるいは逆に記事を公表する際に、社会的地位に基づいた権威という観点から、結論が導き出されることはない。「ヒッグス粒子〔素粒子に関する仮説〕」の記事の編集に関する議論では、著名な物理学者であっても、単に自分の学位や知名度や著書だけを振りかざして、自分の意見のほうが学生よりも優れていると主張することはできない。学者自身も記事の編纂に参加し、自分の見解について論証して説明を施し、学生の誤りを公的議論の俎上に載せなければならない。ウィキペディアでは、参加する意思のあるインターネット利用者であれば、誰であろうと締め出されることはない。

 公的な発言をおこなう場では、あらゆる共有財に対して「分け前なき者の分け前〔本来、分け前がないはずの者までが、要求する分け前〕」が要求され、インターネットでの討論やウィキペディアでは、民主主義の理想である「平等という前提」が、しばしば過剰に推し進められる。社会的な権威だけでは、高い正当性は得られない。そうはいっても、この平等という前提は、世論を平等に数え上げる選挙のように、人々の社会面や経済面の特徴を、一人一票のなかに覆い隠してしまうような、都合のよい虚構ではない。

 平等という前提では、参加者は、何をおこない、何を生み出し、どのような発言をしたかという、活動歴からだけ評価される。(ッカーたちの掟では、この原則が常に要求されてきた。すなわち、(ッカーは、「学歴、年齢、人種、社会的な地位といった偽ものの規準ではなく、自分の業績によって判断されるべき」なのである。インターネットには、各自が自らの才能を提供するという、(ッカーが理想とする民主主義が、きわめて繊細な形で取り込まれた。各自が提供する才能が多種多様で、予想もつかない驚きに満ちたものであったとしてもである。

 こうした掟は、個人の責任感をきわめてリベラルな形で高めた。インターネット以外のネットワークにおいてもそうであるように、一部の者が積極的に活動するので、排除される者も現われた。活動的な者は、非活動的な者の価値を引き下げ、機敏な者は、機動力のない者に目もくれない。しかし、ペテン師が、誠実で謙虚な職人たちの領域を占拠してしまう危険性もある。ネットワークの世界によくあるそのような緊張は、インターネットのインフラ形式そのものと根本的なかかわりがある。だが、これらの影響が語られることはほとんどない。活動的な参加への勧誘自体に、沈黙や受け身的な姿勢に対するさげすみが含まれていることに、気づいている者はいるだろうか。「全員参加」という民主的な展望を掲げながらも、その背後では、出自にまつわる社会的および文化的な資本の不平等な分配が、再生産されているのだ。

 インターネットが、これらの隠された社会的格差に対して提唱する緩和措置は、社会面、文化面からの資本がほとんど必要とされない表現形式でも参加できる、という概念を拡大することであった。インターネットは、閲覧者が評価を示すことのできる機能を拡大させていきながら、微細で取るに足らないつぶやき型の参加形式をつくった。閲覧者は、記事やビデオに投票するのだ。例えば、フェイスブックであれば「いいね!」をクリックし、マイスペースの音楽家のページであれば「イケてる」というコメントを残す。また、ツイッターにリンクを貼りなおすことによって、インターネットにおける情報の階層化に、ちょっとした参加形式をつくり上げたのである。「クリックする」という参加形式が発展したのは、大衆がイン、ターネットを利用しはじめたことと不可分である。

 こうした行為によって、インターネットには商業主義が蔓延し、従来型メディアの受け手側の論理〔受け手がいてこそ成り立つという論理〕が復活したと、インターネット利用者の黎明期世代が嘆くのも、無理のない話である。

 だが、従来型の討論形式ほど洗練されていないという理由により、こうした行為の価値を認めないのであれば、それは保守的なエリート主義であり、インターネットの扉を新たな大衆に対して閉じてしまうだけである。従来の公共空間では、教養ある集団と大衆的な集団は分断されていた。だが、参加資格を奪ってしまうという形式を回避するためにも、インターネットの先駆者たちの精神を尊重しながらも、人々の能力をきわめて多様に定義する寛容性のほうが、はるかに重要なのではないか。
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