更新が遅れました。申し訳ありません。
昨日からの続きですけど、松山城の天守閣に入ってみることにしました。
いくつかの門を通り抜けると、ほどなく本丸に達しました。
↓ゆるキャラの「よしあきくん」です。
↑この城の創設者は羽柴秀吉の家来で加藤嘉明です。
その加藤嘉明の「よしあき」がゆるキャラのネ-ミングです。羽柴秀吉に見出されて、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。
加藤嘉明は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。
そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく完成したそうです。
城山(勝山)山頂は標高約132mで、天守は更に約30m高くそびえたっているため、江戸時代から今日に至るまで、松山城大天守は、圧倒的な存在感を持ったランドマークタワーです。
この日は晴天でしたので松山市内の四方が見渡せました。↑こんな感じです。
もちろん市役所前付近を行く伊予鉄市内線も見えました。
↑お堀沿いに走る市内電車をハッキリととらえることが出来ました。
昨日からの続きですけど、松山城の天守閣に入ってみることにしました。
いくつかの門を通り抜けると、ほどなく本丸に達しました。
↓ゆるキャラの「よしあきくん」です。
↑この城の創設者は羽柴秀吉の家来で加藤嘉明です。
その加藤嘉明の「よしあき」がゆるキャラのネ-ミングです。羽柴秀吉に見出されて、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。
加藤嘉明は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。
そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく完成したそうです。
城山(勝山)山頂は標高約132mで、天守は更に約30m高くそびえたっているため、江戸時代から今日に至るまで、松山城大天守は、圧倒的な存在感を持ったランドマークタワーです。
この日は晴天でしたので松山市内の四方が見渡せました。↑こんな感じです。
もちろん市役所前付近を行く伊予鉄市内線も見えました。
↑お堀沿いに走る市内電車をハッキリととらえることが出来ました。