みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いけにえの血

2015年01月21日 | レビ記

レビ記 4章21−35節

 年末から年始にかけて心に掛かっていた方から電話をいただきました。寒空の中どうしているかしらと思っていましたが、電話の向こうではお元気な声。一安心です。

 レビ記4章後半には、様々な階層の人があやまって罪を犯し、後で咎(とが)を覚える場合にどのようなことによって罪が赦されるかが記されています。上に立つ人が罪のためにささげるいけにえは傷のない雄やぎ、一般の人がささげるのは傷のない雌やぎ、ほかに子羊をささげる場合があることがわかります。この章の前半では、祭司やイスラエルの全会衆ががあやまって罪を犯した場合には傷のない若い雄牛を罪のためのいけにえとしてささげるとありましたので、だれが罪を犯したかによって何をささげるかが異なっていたのです。けれども、ささげ方は基本的には同じです。

 「みことばの光」は「罪を犯すということに関しては、貴賤の別がないこと、特別扱いやえこひいきもないことがわかる」とあります。祭司だから大目に見てとか、上の人にはお手柔らかになどということがないのです。「すべての人は罪を犯した…」との聖書のことばを思い起こします。

 人は互いを職業や立場で判断しやすいものです。しかし、神の御前では等しく罪を贖われなければならない者だということに気づかされる箇所です。そして、罪のためのいけにえの特徴はいけにえの血が流され、血が塗られ、血が注がれるということにあります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(ヨハネの手紙第一 1章7節)との聖句を覚えます。


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