みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

死ぬほどの悲しみ

2024年03月23日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章36−46節

 久しぶりの昼食付きの聖書の会。聖書もお料理もおいしく頂戴しました。

 ここは、イエスがゲツセマネという場所で祈られたことが記されています。「ゲツセマネ」とは「油しぼり」という意味。そこはオリーブの果樹園で、オリーブ山のふもとにありました。

 ヨハネの福音書18章1節は、「キデロンの谷の向こう」にあり「そこには園」があったと書いています。そして2節には、「イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられた」とも説明しています。イエスと弟子たちが過越の祭りのためにここで野宿したのだろうと考えられてもいます。

 そこはイエスにとっては祈りの場所、格闘の場所でした。イエスがこの祈りをするために、弟子たちにも座っているよう求め、ペテロとヤコブとヨハネを伴って園の中に入って行かれました。

 38節の「悲しみのあまり死ぬほどです」というイエスのことばが目に留まります。イエスは、父なる神のご計画を知り、淡々と悩みなく十字架に向かって行かれるのではありません。ここに受肉された神の御子ゆえの苦しみが明らかにされます。人となられたがゆえに、神の御子が死のうとしているのです。

 それは、イエスの個人的な苦悩ということではありません。イエスはすべての人のための罪の贖いゆえに、死ぬほどの苦しみをしておられるのです。「すべての人のため」と書いて、そこにもちろん私がいることに、気づきました。つまり、神の御子イエスをそこまで苦しめたのは私なのだということに……。

 結局イエスは、お一人でこの苦悩と戦われ、三度の格闘を経て、「罪人の手に渡される」道へと進んでくださったのです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。