創世記 41章25−45節
住まいの入口にあるマグノリアが開花したと思ったら、あっという間に七分咲き。数日間楽しませてくれます。調べてみると、モクレン属のことをマグノリアと総称するのだそうで、モクレンやこぶし、タイサンボク、オオヤマレンゲなどもマグノリア(モクレン属)なのだそうです。モクレンは紫色の花、ハクモクレンは白色の花、住まいの花はその中間なので…と探してみたら、サラサモクレン(更紗木蓮)というものがありました。それならば、入口のマグノリアはさて…?
ヨセフはファラオが見た二つの夢は一つのことで、神がなさろうとしていることを示されたのだとして解き明かしていきます。そして彼は、夢を解き明かすだけでなくて、具体的な提言もしています。
「夢」はヨセフにとっては、ある意味で苦い思い出に通じるものでした。自分が見た夢の話をして兄たちの怒りを買い、父にたしなめられ、挙げ句の果てには穴に投げ込まれて奴隷としてエジプトに売られてしまったのですから。それとともに、ヨセフは夢を解き明かすことで人生が開かれていくというようなことも体験します。夢を見、夢を解き明かすという自分の力を、神からの賜物として受け取っているので、ヨセフはファラオの前でも自分を売り込むためにではなくて、神がなさろうとすることを、ファラオの繁栄のためにとして解き明かすのです。
ヨセフの提言は、これまでのヨセフの体験からの延長線上にあると考えることができます。彼は奴隷として買われたポティファルの家の管理を任され、その結果ポティファルの家に主の祝福がありました。冤罪で入れられた監獄でも管理者としての手腕を発揮します。そして、これからは、ファラオの家と、エジプト全土を治めるという権限を得るのです。これもまた、神からの賜物。
神が賜ったものを、神のみわざの進展のために力一杯用いるヨセフの姿から、すがすがしさのようなものを覚えます。