アメリカのデルマー競馬場で行われたレッドカーペットハンデキャップGⅢ芝1・3/8マイルは日本時間で今朝7時の発走でした。
ヌーヴォレコルトは最内枠からの発走。発走後はやや下げて,3頭が並んだ5番手の最内を進む形。やや行きたがっているようには見えましたが,1/2マイルで49秒74,さらに3/4マイルで1分15秒26という極度のスローペースになったこともあり,この馬のいつもの走りからして許容範囲であったと思います。そのままインコースを進み直線に入るところでは4番手。直線で先頭に立った馬が外の方に寄ったのでその内に進路を選択できそうでしたが,最後はその外を選択。詰め寄って並んだところがフィニッシュ。映像を見ていたときには届かなかったのではないかと思ったのですが,カメラの位置の関係もあったようで,ギリギリですが差し切っていました。
優勝したヌーヴォレコルトは昨年3月の中山記念以来の勝利で重賞4勝目。海外では初勝利。前走後の予定は流動的だったようですが,アメリカに居残ってこのレースに出走。おそらく前走はまだ体調が万全ではなく,滞在していれば上昇が期待できるということでの判断だったのだと思います。インで立ち回ることが得意な馬だけに,この枠を引けたのもよかったでしょう。2着馬は1番人気に推されたフランスの馬で,その他の国からも多くが集まったレースをトップハンデで勝ったのですから,GⅢとはいえ評価してよいのではないでしょうか。父はハーツクライ。Nuovo Recordはイタリア語で新記録。
日本馬の海外レース勝利はニエユ賞以来。アメリカでは2008年のピーターパンステークス以来。騎乗した岩田康誠騎手は2013年の香港スプリント以来の海外重賞勝利。アメリカでは初勝利。管理している斎藤誠調教師は海外重賞初勝利。
フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが書簡四十二で,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が人間には畏敬することができない神Deusを創出していると批判している点に関しては,前もって指摘しておいたように,スピノザは純粋に哲学的には反論しないと僕は考えます。
スピノザは神学と哲学を明確に分離します。哲学は人に真理を教えるものではあり得ても,神学はそういうことに役立つものではないと考えるのです。では神学あるいは聖書が何のために存在するのかといえば,人がそれに服従するためです。つまり哲学が真理を教えるものであるとしたら,聖書は服従を教えるものです。そして人の服従の条件が聖書の中に成立しているというのがスピノザの見方です。さらにそれに服従することによって人は敬虔pietasになることができます。これは哲学者が理性ratioによって敬虔になることができるのと,結果という観点から人に齎されるものについて同じです。スピノザは聖書をこの観点から評価するのです。
この評価の観点は,たぶん哲学の場合にも同じかもしれないと僕は思います。つまり哲学が単に真理を教えるということをもってスピノザは哲学に意義を見出すのでなく,実践的な観点から意義を見出しているのではないかと思います。敬虔という実践をスピノザが評価するのであれば,神学も哲学も同じように評価することが可能で,この観点はスピノザの神学論にマッチするように僕には思えるのです。
したがって,フェルトホイゼンが畏敬することができる神というとき,この畏敬というのを服従と解してしまえば,フェルトホイゼンの批判が批判として適当であるかどうか別として,スピノザの哲学の批評として妥当であると僕は考えます。というのは,神を畏敬することを教えるのは神学なのであって,哲学にはそういう役割はなく,単に真理としての神,すなわち神の十全な観念を教えればよいというのがスピノザの一貫した姿勢であるといえるからです。実際に第一部定義六の神は,十全な認識の対象たり得ても,畏敬あるいは服従の対象とはなり得ないでしょう。スピノザ自身もそういう意図から神をこのように定義しているのではありません。むしろそうである必要はないのです。
ヌーヴォレコルトは最内枠からの発走。発走後はやや下げて,3頭が並んだ5番手の最内を進む形。やや行きたがっているようには見えましたが,1/2マイルで49秒74,さらに3/4マイルで1分15秒26という極度のスローペースになったこともあり,この馬のいつもの走りからして許容範囲であったと思います。そのままインコースを進み直線に入るところでは4番手。直線で先頭に立った馬が外の方に寄ったのでその内に進路を選択できそうでしたが,最後はその外を選択。詰め寄って並んだところがフィニッシュ。映像を見ていたときには届かなかったのではないかと思ったのですが,カメラの位置の関係もあったようで,ギリギリですが差し切っていました。
優勝したヌーヴォレコルトは昨年3月の中山記念以来の勝利で重賞4勝目。海外では初勝利。前走後の予定は流動的だったようですが,アメリカに居残ってこのレースに出走。おそらく前走はまだ体調が万全ではなく,滞在していれば上昇が期待できるということでの判断だったのだと思います。インで立ち回ることが得意な馬だけに,この枠を引けたのもよかったでしょう。2着馬は1番人気に推されたフランスの馬で,その他の国からも多くが集まったレースをトップハンデで勝ったのですから,GⅢとはいえ評価してよいのではないでしょうか。父はハーツクライ。Nuovo Recordはイタリア語で新記録。
日本馬の海外レース勝利はニエユ賞以来。アメリカでは2008年のピーターパンステークス以来。騎乗した岩田康誠騎手は2013年の香港スプリント以来の海外重賞勝利。アメリカでは初勝利。管理している斎藤誠調教師は海外重賞初勝利。
フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが書簡四十二で,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が人間には畏敬することができない神Deusを創出していると批判している点に関しては,前もって指摘しておいたように,スピノザは純粋に哲学的には反論しないと僕は考えます。
スピノザは神学と哲学を明確に分離します。哲学は人に真理を教えるものではあり得ても,神学はそういうことに役立つものではないと考えるのです。では神学あるいは聖書が何のために存在するのかといえば,人がそれに服従するためです。つまり哲学が真理を教えるものであるとしたら,聖書は服従を教えるものです。そして人の服従の条件が聖書の中に成立しているというのがスピノザの見方です。さらにそれに服従することによって人は敬虔pietasになることができます。これは哲学者が理性ratioによって敬虔になることができるのと,結果という観点から人に齎されるものについて同じです。スピノザは聖書をこの観点から評価するのです。
この評価の観点は,たぶん哲学の場合にも同じかもしれないと僕は思います。つまり哲学が単に真理を教えるということをもってスピノザは哲学に意義を見出すのでなく,実践的な観点から意義を見出しているのではないかと思います。敬虔という実践をスピノザが評価するのであれば,神学も哲学も同じように評価することが可能で,この観点はスピノザの神学論にマッチするように僕には思えるのです。
したがって,フェルトホイゼンが畏敬することができる神というとき,この畏敬というのを服従と解してしまえば,フェルトホイゼンの批判が批判として適当であるかどうか別として,スピノザの哲学の批評として妥当であると僕は考えます。というのは,神を畏敬することを教えるのは神学なのであって,哲学にはそういう役割はなく,単に真理としての神,すなわち神の十全な観念を教えればよいというのがスピノザの一貫した姿勢であるといえるからです。実際に第一部定義六の神は,十全な認識の対象たり得ても,畏敬あるいは服従の対象とはなり得ないでしょう。スピノザ自身もそういう意図から神をこのように定義しているのではありません。むしろそうである必要はないのです。