スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

愛するということ&有力な理由

2020-07-01 19:05:47 | 哲学
 フロムErich Seligmann Frommは数多くの著作を出版していて,その中の代表作といえるのは,最初に出版した『自由からの逃走Escape from Freedom』だと思います。ただこの本は社会心理学的要素が強いですから,読みにくいというような本ではありませんが,気軽に手に取って読むというような内容であるわけではありません。むしろ学術書として,専門的な興味がある人が読むべき著作であるように思います。これに対して,だれにでも読みやすそうに思われる著作もあり,その第一のものは1956年に発刊された『愛するということ』だと思います。フロムが著書の冒頭でいっているように,できるだけ専門用語を使わないで論じられています。他面からいえばそれは,フロム自身が幅広い読者層を想定していたということになるでしょう。
                                             
 背表紙の簡単な解説にあるように,愛というのは,孤独な人間が孤独を癒す営みであり,また現実世界の中で幸福に生きるための最高の技術であるというのがフロムの主張です。したがってまず,フロムは愛をひとつの営み,実践としてみているのであり,感情としてみているわけではありません。次に,最高の技術というときの技術は,アートを意味するものであって,テクニックを意味しません。これはアートが技術と訳されているから生じていることであり,この点には気を付けてください。
 スピノザとの関連でいえば,スピノザのように愛amorを感情affectusとしてみた場合には,フロムがここでいっているのは能動的な愛に該当します。『自由からの逃走』にはスピノザに対する言及はないのですが,『愛するということ』には明確な言及があり,その言及の中でそれが明らかにされています。ただし,スピノザの哲学の解釈としてそれが正しいのかといえば,そんなことはありません。フロムはあたかもスピノザが愛は能動的なものであると主張したかのようにいっていますが,スピノザは受動的な愛があるということも認めるからです。とはいえ,第三部定理五九から分かるように,基本感情affectus primariiのうち喜びlaetitiaと欲望cupiditasは能動的であり得るとスピノザはいっていて,第三部諸感情の定義六から分かるように愛は喜びなので,能動的な愛が存在することをスピノザが認めていることは間違いありません。そしてフロムはスピノザの哲学を解釈しようとしているわけではなく,この部分は文脈的にはそう間違っているわけではないことは確かです。

 最高に完全な存在者をDeusと命名することが,広く受容され得たというのは,哲学的な意味も含みますし,神学的な意味も含みます。たとえばデカルトRené Descartesの哲学では,最高に完全summe perfectumであることが,神の定義Definitioそのものでした。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定義八では,どのようなものが神と呼ばれるかという形で神が定義されていますが,それはそれ自体によって最高に完全であると理解されるものだとされています。スピノザは,最高に完全であるというのは神の定義として相応しくなく,絶対に無限absolute infinitumであるというのが神の定義でなければならないと考えています。なぜなら,最高に完全であることは絶対に無限であることから帰結する事項であって,絶対に無限であることが神の本性essentiaに属するのに対し,最高に完全であることは神の本性には属さず,神の本性から帰結する神の特質proprietasであると考えていたからです。しかしこの差を考慮したとしても,神が最高に完全な存在者であるという点ではデカルトとスピノザは一致をみるのであって,そうであるなら,最高に完全な存在者のことを神とスピノザが命名する有力な理由になり得るでしょう。
 一方,神は最高に完全な存在者であるという命題や,最高に完全な存在者は神であるという命題が,キリスト教の神学者から否定されるということはまず考えられません。いい換えれば神学者もまた,神が最高に完全な存在者であるということについては是認するでしょう。よってこの場合も,神が最高に完全であるという点では神学者とスピノザが一致するのですから,最高に完全な存在者について,それをスピノザが神と名付ける有力な理由となり得るでしょう。つまりこうした理由から,スピノザは絶対に無限な実体のことを神と命名したのだとする推測は,そんなに的外れではないだろうと思います。この定義が名前の定義であるということに気付かれるかどうかということは別としても,そうした存在のことを神と命名したことについての妥当性については,同時代の哲学者からも神学者からも,異論は出ないものと思われるからです。
 しかし実際にはスピノザとデカルトあるいは神学者の間には,すでに相違が発生しているのです。
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