スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&目的と手段

2020-07-10 18:52:28 | 将棋
 千代田区で指された昨日の第91期棋聖戦五番勝負第三局。
 藤井聡太七段の先手で角換り相腰掛銀。研究合戦の将棋になりました。
                                        
 先手が7八の金を8八に寄ったのに対し,後手の渡辺明棋聖が王手に飛車を打った局面。先手はこの手は深く研究しておらず,後手は研究手順だったようです。
 ここは分岐で☗9八銀か☗8七玉。熟考した上で前者でした。銀を温存できる分だけ後者の方が指したいと思えますので,☗8七玉では先手が負けるのでしょう。
 ☖6七馬☗6四角☖9五歩☗同歩☖9二香打と進み,☗5三成銀☖3一王としてから☗9四桂と受けました。
 ここも分岐で☖2一王と早逃げしておくか☖9四香から攻めていくか。後者が決断され,☗同歩☖同香☗9五歩☖8五桂☗同銀☖9三桂☗8二歩☖8五桂と進みました。
                                        
 どうもここが最後の分岐で,実戦は☗8五同桂☖7九銀で難解ながらも後手の勝ち筋に入りました。☗8六玉と上がると後手はどこかで☖2一玉が必要になり,こちらの方が難しかったようです。第1図の☖9九飛の一手分の研究が行き届いていた差が大きかったということでしょう。
 渡辺棋聖が勝って1勝2敗。第四局は16日です。

 Deusの本性naturaに自由意志voluntas liberaが属し,神はその自由な意志によってすべての事柄をなすという意見opinioが,神が善意をもってすべてのことをなすという意見と比較したときに,なぜ誤謬errorの度合が少ないといえるのか,あるいは同じことですが,自由意志によって神がすべての事柄をなすという意見の方が,神が本性の必然性necessitasによって働くagereというスピノザの主張に近いといえるのがなぜかということには,明確な理由があります。まず,意志と善意を比較してみることから始めてみましょう。
 もし神が善意の下にすべての事柄をなすと主張する場合は,神の本性に自由意志が属するという見解opinioは斥けられなければなりません。なぜなら,もし善意が存在するとするなら,悪意もまた存在するといわなければならないでしょう。善悪というのはふたつあるいは複数の事柄を比較することによってはじめて抽出することが可能な概念notioですから,これはそれ自体で明白だといわなければなりません。そこでもし,神のうちに善意と悪意があると仮定した場合に,神が自由意志によってある事柄をなすのであれば,神は善意によってそれをなすことも可能だし,悪意によってそれをなすことも可能でなければなりません。もし善意か悪意のどちらかしか選択することができないとすれば,それは自由な意志によって選択されたとはいえなくなるからです。よって,神が善意によってすべての事柄をなすと主張する場合には,神の本性に自由な意志が属するということを両立させることはできません。したがって,もし神が善意によってすべての事柄をなす場合には,神は善である事柄を必然的にnecessario選択しなければならないということになります。とすると,何事かをなすことの目的というのは,その何事かを善bonumにするためであるといわなければならないことになります。すなわち,善という目的が初めに立てられていて,すべての事柄をなす神は,そのを善を達成するための手段であるということになります。
 これでみれば分かるように,神が善意によってすべての事柄をなすという意見は,神の外に神が手段となって達成するための目的を立てていることになるのです。スピノザはそれを強く否定するのです。
コメント
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