スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

習志野きらっとスプリント&蜘蛛としての神

2020-07-23 19:05:04 | 地方競馬
 昨晩の第10回習志野きらっとスプリント
 ノブワイルド,クルセイズスピリツ,アザワクの3頭が前に。先頭に立っていたノブワイルドを内からアザワクが追い抜き,ハナには立ちましたが,ノブワイルドも引かなかったので,3コーナーにかけてこの2頭で3番手以下を離していく形に。ポッドギルが3番手に上がり,クルセイズスピリツは4番手に。ストロングハートが5番手で以下はミラクルダマスク,クイーンズテソーロ,キャンドルグラスとエイシンテキサス,スティンライクビー,トミケンキルカス,フランシスコダイゴの順で差がなく続きました。1頭だけ大きく取り残されていたアピアは故障を発症して競走中止。最初の400mは22秒1の超ハイペース。
 コーナーの途中でノブワイルドが外から再び先頭に。ポッドギルが3番手に上がりましたが,ノブワイルドとのスピード比べには負けたアザワクがよく粘り,アザワクに追いつくには至らず。この間にポッドギルの外からキャンドルグラスが伸びてきて,アザワクまで差して2番手に。しかし粘るノブワイルドに並び掛けることはできず,優勝はノブワイルド。キャンドルグラスが半馬身差で2着。実質的に最後尾から大外を伸びたフランシスコダイゴが1馬身半差の3着に届き,アザワクはクビ差で4着。ポッドギルが半馬身差で5着。
                                   
 優勝したノブワイルドテレ玉杯オーバルスプリント以来の勝利。南関東重賞は昨年のプラチナカップ以来の勝利で3勝目。第9回に続く連覇で習志野きらっとスプリント2勝目。重賞2勝馬ですから実績は断然。ただもう少し距離があった方がいいタイプではありますので,この距離のスペシャリストを相手にしてどうかといったところ。かなり強引なレースで逃げた馬を潰し,やはりスプリンターの追い上げを封じましたので,内容としてはとても強かったといえます。8歳になりましたが,極端な能力の衰退はないとみていいのでしょう。父はヴァーミリアン。祖母は1987年に金杯を勝ったトチノニシキ
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年の習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞48勝目。9月にはテレ玉杯オーバルスプリントを勝ちました。第6回,9回に続き連覇で習志野きらっとスプリント3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞40勝目。第9回からの連覇で習志野きらっとスプリント2勝目。

 第三部定義三から分かるように,スピノザは感情affectusについては,人間の身体humanum corpusについても人間の精神mens humanaについても妥当する語として用いています。ですから,意志voluntasについてもそうすることが可能であったことは確かでしょう。ですが身体について意志という語を用いることは,それまでの哲学の文脈からすれば無用の混乱を齎す危険性があります。なおかつその意志は,神Deusの本性essentiaに属するとした意志とは異なる意志でなければならないので,二重の混乱を与えることになってしまいます。だとすれば,スピノザがこの方法,すなわち神の本性に自由意志voluntas liberaが属するという考え方を採用しなかったのは,ある意味では当然であったといえるかもしれません。神の本性から意志を剥奪することにより,思惟の様態cogitandi modiとしての意志だけを認めた方が,スピノザ自身がいわんとするところをより分かりやすく伝えられるであろうからです。このようにしてスピノザは,神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereとして,そこに自由libertasを認めるかわりに,意志からは自由を剥奪し,所産的自然Natura Naturataとして思惟の様態という地位を与えたのです。
 意志を思惟の様態としてだけ認め,本性の必然性に自由を付与したことは,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが蜘蛛の比喩を用いたときに,神が自ら蜘蛛となって網を張るようになったという点と関連します。ニーチェはそれはスピノザの相の下にそうなったといっていました。ではスピノザの新奇性というのが何であったかといえば,神が本性の必然性によって働くとした点にあったのだからです。ですから蜘蛛としての神が,スピノザの哲学における神であることは間違いなく,そしてその神は,それ以前の,形而上学者から自らの周囲に蜘蛛の巣を張り巡らせられていた神ではなく,自ら巣を張るようになった神なのですから,神は本性の必然性によって働くようになったことにより,蜘蛛となったのです。
 これは逆にいえば,もし神が意志の自由によって働いているうちは,自らが蜘蛛として巣を張っていたわけではないとニーチェは考えていたということになります。ということは,意志の自由によって働く神と本性の必然性によって働く神の間に違いがあるとニーチェはみていたということです。
コメント
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