スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理三二の意味&原因性の相違

2020-07-12 19:03:06 | 哲学
 第三部定理三二証明を生かすことによって,この定理Propositioの意味をもう少し広く解釈できないかを探ってみます。
                                   
 この定理は,ひとりだけが所有することができるものをある人が享受すると表象されると,僕たちはその人がそれを所有することを妨害しようとするといっています。なぜかといえば,定理の最初の部分の仮定から,その人がそれを所有してしまうと,自分はそれを所有することができなくなるからです。この条件自体は実は定理の冒頭部分の仮定とは関係なしに成立するといえるでしょう。たとえばふたりだけが所有可能なものをふたりが享受するのを表象するimaginariなら,僕たちは少なくともそのうちのふたりのどちらかがそれを所有するのを妨げようとするでしょう。あるいはふたりともに妨害しようとするかもしれません。このことは,第三部定理三二証明の内容から間違いないといえるでしょう。
 すると,もしほかの条件が同一であるとするなら,僕たちが他人について享受することを妨害する傾向conatusは,それを所有することができる人間の数が少なくなれば少なくなるほど,強くなるといえます。なぜなら自分がそれを享受することができる可能性は,それを享受することができる人数が多ければ多いほど高くなり,少なければ少ないほど低くなるからです。
 実際には,ほかの条件が完全に同一ということはありませんから,現実的なことをいえばこのような類推は無意味といえるかもしれません。しかし論理的にはこのことが成立することもまた間違いありません。したがって論理的にいうならこの定理には,前述したこと,すなわちそれを所有することができる人数の多さと,僕たちが他人がそれを所有することを妨害する傾向の強さには,相関関係があるという意味が含まれているといえます。
 次に,所有できる人数の多さと,それを所有することの困難さは比例するでしょう。よって入手の困難性の表象imaginatioの度合と,他人がそれを所有することを妨害する傾向にも相関関係があることになります。つまり僕たちは,入手の困難性が高く表象されればされるほど,それを他人が入手することを強く妨害するようになるのです。

 Deusの本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属し,神はその自由な意志によってすべての事柄を決定するdeterminareというのが,デカルトRené Descartesの基本的な見解opinioです。それと同時に,神はその自由意志によって,すべてのものの創造者でなければなりません。したがって,原因causaと結果effectusという関係でいうなら,神は神によって創造される事物の存在existentiaに対しても本性に対しても,本性naturaの上で先立つ存在であることになります。これは,原因が結果に対して本性の上で先立っていなければならないということから明白でしょう。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』ではこれらのことは,第一部定理一二の系一と系四に示されています。よって神の自由な意志は,被創造物の本性および存在に,本性の上で先行して,被創造物に関連するすべての事柄を決定していたのでなければなりません。いい換えれば神はまず,永遠aeterunusから永遠に渡ってすべての事物および事象に関して,それらを決定していたことになります。これは同じく『デカルトの哲学原理』では,第一部定理二十に示されています。このとき,神の本性に自由な意志が属するかどうかということを別とすれば,これらの事柄のすべてに関して,スピノザは同意できます。すなわち神は本性の上ですべてのものの本性および存在に先立っていて,同時に現に存在するものは現に存在するのとは異なった仕方で存在することはできなかったという点に関しての同意です。第一部定理一六第一部定理二九,および第一部定理三三でスピノザがいっていることが,デカルトがいっていることとどう違っているのかといえば,それは神の原因性を,神の本性の必然性に求めるのか,神の自由な意志に求めるのかという点だけに存するからです。まずこの点からして,神の本性に自由な意志が属するという見解が,スピノザが示した真理veritasからそう遠くない位置にあるということが分かるでしょう。
 さらにこの近似性は,次のような観点からも求めることができます。
 神の本性に自由な意志が属するというとき,神の本性をpotentiaという観点からみれば,それは神が自由に意志する力であるということになります。よって神の自由意志とは力という観点からみられる限りで,神の本性にほかなりません。
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