スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ふるさとカップ&もうひとつの方法

2020-07-22 19:00:06 | 競輪
 昨日の弥彦記念の決勝。並びは渡辺‐小松崎‐佐藤の福島,平原‐諸橋の関東,郡司‐鈴木の南関東。
 佐藤がスタートを取って渡辺の前受け。4番手に平原,6番手に郡司で周回。残り3周の最終コーナーから郡司が上昇開始。ホームで渡辺を叩いて前に。続いた平原が3番手になり,引いた渡辺が5番手でバックに。ここから渡辺が発進していきましたが打鐘から郡司が抵抗。渡辺は前に出ることができず,立て直してホームからまた動いていきましたが,郡司が振り切ることに成功。渡辺は浮いてしまい,3番手に平原で5番手に小松崎という6人での一列棒状に。最終コーナーの手前から平原が発進。コーナーの途中で捲りましたが,やや時間を要したため,鈴木から執拗な牽制を受けた諸橋が一時的に離れました。先頭で直線に入った平原がそのまま粘り切って優勝。2着は立て直して伸びた諸橋と,大外を強襲した小松崎で接戦。写真判定となり,諸橋が4分の3車身差の2着を確保し関東のワンツー。小松崎がタイヤ差で3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は3月の松山記念以来の優勝で記念競輪23勝目。弥彦記念は初優勝。このレースは渡辺の先行を予想していました。瞬発力はあるタイプなので,郡司をかまし切れなかったのは意外だったのですが,現状は郡司にもそれだけの力があるということなのでしょう。福島勢の二段駆けがなくなり,無理気味に先行した郡司ラインの3番手を取れたことで,平原に絶好の展開となりました。現状は脚力だけで記念競輪を優勝するにはやや苦しくなってきていると思うのですが,レースの組立は巧みな選手で,このレースのように自分に向く展開を作る機会は多くなるので,まだ活躍はできるでしょう。

 ふたつある解決策のうち,ひとつが単に論理的に解決しているだけで,現実的には批判を招くだけであるとしたら,実際にスピノザが採用することができたのは,もうひとつの方法です。それは,神Deusの絶対的本性を自由意志voluntas liberaと等置する方法です。この場合,たとえば延長の属性Extensionis attributumの原因causaが神の自由意志であるということはできないのですが,延長の属性自体は神の自由意志と等置することができます。各々の物体corpusの原因は延長の属性ですから,物体の原因は神の自由意志であるということになります。よってこの点での批判を招くことはありません。
 この解決策の難点は,神の自由意志を,というのは意志をというのと同じですが,思惟Cogitatioとみなすことができないという点でしょう。意志を思惟とみなしてしまった途端に,それを延長の属性と等置することができなくなってしまうからです。同時にこれは,思惟の様態cogitandi modiとしての意志を規定することができなくなるということを意味しますから,人間の精神mens humanaによる意志作用volitioについては何も語ることができなくなるということにも繋がります。すでに示したように,もし神の本性essentiaに自由意志を帰した場合は,人間の精神の意志作用を認めた場合でも,神の意志と人間の意志の間には本物の犬と星座の犬ほどの相違が発生してしまうのですが,そうした相違があることを受け入れるのであれば,意志を思惟として規定すること自体は可能です。それが意識されているかいないかは別として,神の本性に自由意志が属するという論者は,思惟的実体のみを神と認めることによって,そうした方法を採用しているのだといえるでしょう。しかしスピノザのように神が絶対に無限な実体substantiaであるとした場合は,意志を神の絶対的本性と等置しなければならないがゆえに,人間の精神に意志があるとか,人間は意志するということさえいえなくなっていますのです。
 もちろん,神の絶対的本性と自由意志とを等置したのと同じように,人間についても意志を精神と身体corpusの双方に規定するという方法は残されています。ただこの場合には,神の意志と人間の意志との間には本物の犬と星座の犬ほどの相違があるということを受け入れなければならなくなります。
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