スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

カーンの雑感③&逆の主張

2020-07-18 18:56:15 | NOAH
 カーンの雑感②では,吉村道明について詳しく書きました。しかしそこで漏らしてしまったことがありますので,ここにつけ加えておきます。
                                         
 『心に残るプロレス名勝負』の中で,ジョー・樋口は馬場のことを「おんたい」と記述していました。これは異称ですが,一種の敬称と考えるべきで,樋口にとって馬場はそれだけ特別な人物であったということを証しているといえます。しかし樋口はこの本の中で,もうひとりだけこの種の,敬称の類とみなすことができる異称で記述している人物がいます。それが吉村なのです。樋口は吉村について記述するときは,ほぼ例外なく「アニキ」という語を付しています。馬場の場合と少しだけ異なるのは,馬場については単に「おんたい」と表現されるのに対し,吉村については単に「アニキ」といわれるわけではなく,「吉村のアニキ」というように,吉村という固有名詞と共に表記されている点です。ただ,この本の内容は,半分は樋口がレフェリーとして裁いた試合に関するものですが,残りの半分は樋口の自叙伝といえるものとなっています。したがって単に「アニキ」と表記すれば,それは吉村のことよりも樋口の実兄を意味するというように読者には受け取られかねないためにこのような表記になっていると解することもできますから,この相違についてはさほど重大視しなくてもいいのではないでしょうか。
 こうした敬称が用いられているのは,馬場のほかには吉村だけです。したがってこれは,樋口にとって馬場が特別の人物であったのと同様に,吉村もまた特別だったということを単純には意味します。しかしこれは逆にいえば,馬場が樋口によって尊敬されるに値する人物であったのと同様に,吉村もまた樋口からの尊敬を受けるのに十分に値する人物であったということを意味するでしょう。したがってこのことからも,吉村の人格というのがどういうものであったのかということについて,読者は判断することができるのです。いい換えれば,馬場が樋口からみて人格者であったのと同じ意味で,吉村もまた人格者であったのです。
 カーンが入門したときに付け人としてついた人物は,馬場に匹敵するような人格者であったということになります。

 意志voluntasが思惟の様態cogitandi modiであるということは,意志は個物res singularisであるということを意味します。したがって意志は,正確にいうと個々の意志作用volitioは,第一部定理二八の様式で発生することになります。このことを意志について具体的に明らかにしているのが第二部定理四八です。この定理Propositioは人間の精神mens humanaのうちには自由意志voluntas liberaは存在しないということを示そうとしていますが,だからといって神Deusのうちに自由な意志があるというわけでもありません。すでに示したように,人間の精神のうちに自由な意志が存在しないのに,神の本性essentiaのうちに自由な意志が属するとすれば,神の意志と人間の意志との間に,本物の犬と星座の犬との間にあるほどの相違が生じることになってしまうからです。
 このようにしてスピノザは,人間の精神のうちには,自由な意志こそ存在しないけれども意志が存在するということを認め,その代わりに神の本性に意志が属するということは否定し,神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereと主張したのです。しかし,神の本性に自由な意志が属するという見解opinio,デカルトRené Descartesの見解が,神が善意をもってあらゆることをなすとする見解,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの見解ほどには,真理veritasから遠ざかっていないことは確かですし,なぜスピノザがそのようにいったのかということも理解できると思います。
 スピノザはこれとは逆の見解,すなわち,神の本性に自由意志が属し,人間は意志することはないといういい方も,しようと思えばできました。ただし,そのように主張するためにはある条件が必要でした。このことは,第一部定義六に示されているように,スピノザの哲学における神は,無限に多くの属性infinitis attributisによって本性を構成されているということと大きく関連します。デカルトが神の本性に自由な意志が属するというとき,神は実体substantiaとしていえば思惟Cogitatioの実体であり,延長Extensioの実体ではありません。このことはデカルトが,神とは別に物体的実体substantia corporeaが存在するといっていたことから明らかです。ところが,スピノザの哲学では,デカルトの哲学でいうところの物体的実体は何かといえば,神なのです。これは,延長の属性Extensionis attributumが無限に多くの属性のひとつとして,神の本性を構成しているという意味です。
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