スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

霧島酒造杯女流王将戦&思惟的実体

2014-12-01 19:11:37 | 将棋
 11月22日に放映された第36期女流王将戦三番勝負第二局。収録は10月14日。
 香川愛生女流王将の先手で角道オープン中飛車。清水市代女流六段が天守閣美濃を目指そうとしたところで先手から動き,角交換。飛車を回って8筋から戦いにいきましたが,これが無理で先手は駒損で抑え込まれそうという非常に苦しい将棋を余儀なくされました。ただ,後手が性急に決めようとしたため,先手も完封されることは逃れ,苦しいながらも手数を伸ばしていくことは可能な形に。
                         
 4筋で香車を打ち合って取る展開から,先手が歩を受けた局面。後手の方がよさそうですが,容易に勝てるという局面でなくなっているのは確かかと思います。
 ここで△4四飛と寄って,4筋に駒柱が立ちました。4筋に駒を足して飛車取りにもなっていますから気分のよさそうな手ですが,▲6六龍と取ったのが強烈な勝負手。△同銀▲同馬は必然。後手は△5七歩から攻めを続けましたが,▲4六歩と4筋の方を緩和して△5八歩成▲同金左。
 攻めていくなら△2七馬と切る手ですが,無理と判断したようで△7二馬と逃げました。しかしこれには▲4五歩が絶好。△6六歩▲8八馬に仕方なく△3三桂でしたが,▲4四歩と飛車を取り,△同歩に▲3八銀と投入しました。
                         
 これで先手玉は怖いところが消え,逆転。4八の香車を軸に後手玉周辺の金銀を剥がしていった先手の勝ちとなっています。▲6六龍はびっくりしたのですが,よい手であったのでしょう。
 香川王将が勝って1勝1敗。第三局は11月29日に放映されました。

 デカルトの実体の定義は,実体が存在するために,神の協力が不可欠であるというようには必ずしも解せないのだと僕はいいました。それは,思惟的実体を視野に入れた場合に該当します。しかし,もしも思惟的実体も神の協力なしには存在し得ないということであれば,思惟的実体の観念もまた神の観念の協力なしには存在し得ないことになるのは,物体的実体について考察した場合と同じ訴訟過程から帰結します。ですからこの場合に関しては,これ以上は説明する必要もないでしょう。
 よって,残るのは,もしも思惟的実体が,神の協力なしに存在し得ると仮定した場合です。この場合,実体はそれ自身で概念されるということに対するデカルトの否定の理由は,それと同じようには説明することができなくなるからです。
 デカルトの哲学に詳しい方は,思惟的実体といういい方自体に違和感があるかもしれません。実際のところ,デカルトが思惟的実体が実在すると主張したとはいえない面があるからです。ただ,僕がこのようにいっているのは,あくまでもスピノザの哲学に立脚しているからです。そしてこの立場からは,デカルトの哲学のうちに,思惟的実体の実在を認めなければならないことになります。まずこのことを論証しておかなくてはなりません。
 すでにいったように,『デカルトの哲学原理』の第二部では,真先に物体的実体の実在が証明されています。この証明の最初の部分で,延長とか空間というのが純粋な無ではあり得ない以上,それが実体に帰せられなければならないとされています。これと同じことが,実は思惟作用にも適用されなければなりません。要するに現実的に何らかの思惟作用というものがある以上,それは実体に帰せられなければならないからです。そこで僕はその実体を,思惟的実体といいます。思惟作用は実在的なものなので,これ自体は実在的な意味であり得ますが,論証は物体的実体と同様の論理で生じているので、名目的と理解してもらう方があり難いです。つまり物体的実体が存在しなければならない以上,思惟的実体も存在しなければならないということが,デカルトの哲学のうちに含まれているというように僕は理解するのです。
コメント
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