スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

十全な認識の契機&十全な観念

2018-04-23 18:56:57 | 哲学
 『スピノザ―ナ15号』の矢嶋直規の論文は,スピノザの哲学では「理性の導き」によって混乱した観念idea inadaequataが十全な観念idea adaequataになるといわれていると読解できるようになっています。矢島の論考はヒュームDavid Humeの哲学との関連なので,矢嶋自身がそう考えているかどうかは分かりませんが,何度かいっているように,僕はそのような考え方は不適切であると考えています。ただし,識者の中には,これに近い考え方をしている人もいますので,先にそちらの例を示しておきます。
                                     
 僕の解釈ではドゥルーズGille Deleuzeは混乱した観念が十全な観念になるということに対して肯定的です。『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』を読む限り,少なくともドゥルーズは,人間がXを混乱して認識するcognoscereことがXを十全に認識することの契機になると考えていて,この面で事物を混乱して認識することにも意義があると解していることは間違いないと思います。僕はたとえばXを混乱して認識することによってそれを十全に認識しようという意欲がその人間に湧き得るということは否定しないので,その意味で混乱した認識が十全な認識の契機になることは否定しませんが,だから混乱した認識cognitioにも意義があるというようには考えません。
 『スピノザという暗号』を読むと,田島正樹は混乱した認識が十全な認識になるということを全面的に肯定しているように思えます。田島は観念をパズルに喩え,混乱した観念はほかとの結びつきを欠いたパズルの1ピースで,十全な観念は完成したパズルに嵌った1ピースであると指摘しているからです。これは同じピースが混乱していたり十全であったりすると主張しているようなもので,ひとつのピースを全体と連関させることで,混乱していたものが十全になると主張しているのと同然であると僕は解するからです。
 したがって,僕はそれに疑義を抱きますが,混乱した観念が十全な観念になるという解釈も,まったく成立しないというわけではありません。僕がなぜそのことを否定するのかということについては,また別に示すことにします。

 ある観念ideaが真の観念idea veraであれば十全な観念idea adaequataでもあります。そして十全な観念であるなら真の観念でもあります。逆に真の観念ではない,つまり誤った観念idea falsaであるなら十全な観念ではない,すなわち混乱した観念idea inadaequataであり,混乱した観念であるなら誤った観念なのです。なのになぜ真verumといわれたり十全adaequatumであるといわれたりするか,誤っているといわれたり混乱しているといわれるかといえば,スピノザは観念には外来的特徴denominatio extrinsecaと異なる特徴があると考えるからです。これはスピノザの哲学に特有の,少なくともスピノザ以前の従来の哲学とは異なった,スピノザの哲学に特有の考え方といえます。この特徴のことを僕は観念の本来的特徴denominatio intrinsecaといっています。
 したがって,観念は外来的特徴からみられるなら真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかであり,本来的特徴からみられるなら十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかです。よって真であるか十全であるかは,その観念を外来的にみるか本来的にみるかの相違ということができます。この意味において,中井がいっているように,事物を十全に認識するということと事物を真に認識するということは,ほぼ同じ意味であることになるのです。
 外来的特徴とは,観念と観念されたものideatumがどういった関係にあるかということでした。観念と観念されたものが一致すればそれは真の観念といわれるのであり,第一部公理六から分かるように,スピノザもこのことは否定しません。これに対して本来的特徴というのは,第二部定義四から分かるように,観念されたものとは無関係に,観念それ自体が有している特徴のことです。スピノザは第一部公理三で,原因causaが与えられないと結果effectusは生じないといっています。スピノザがいう原因というのはすべからく起成原因causa efficiensのことです。よってどんな観念も何らかの起成原因が与えられることによって生じます。この観念の原因とその観念の関係が,スピノザがいう本来的特徴です。
 僕は真の観念と十全な観念はほぼ同じ意味だけれどそれは相違があるという意味であって,その相違の方がスピノザ哲学の理解の上では重要だといいました。なぜかをここから説明していきます。
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