スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羽田盃&前提

2019-04-25 19:04:25 | 地方競馬
 昨晩の第64回羽田盃
 どうしても逃げたいという馬がいなかったようで,枠なりに最内のトーセンボルガがハナへ。成行きのような逃げでしたが,2馬身ほどのリードに。2番手も2番のカジノフォンテンと3番のサクセッサーで併走。2馬身差の4番手にハナズボンダイ。また2馬身差の5番手がウィンターフェル。さらに2馬身差でステッペンウルフとフォルベルス。この後ろにジョーパイロライト,シビックヴァーゴ,オーシャンブラックの3頭。さらにミューチャリーとアギトでこの7頭は集団。2馬身差でホワイトヘッド。4馬身差でヤマショウブラック。2馬身差の後方2番手がアエノエンペラーで最後尾にフォルデュランという縦長の隊列。最初の800mは49秒7のミドルペース。
 向正面でサクセッサーが単独の2番手となり,3コーナーにかけて逃げたトーセンボルガと3番手のカジノフォンテンまでの差は4馬身くらいに。ここから差が詰まり,カジノフォンテンの外から上昇していったウィンターフェルまでの4頭が雁行でコーナーを回り,その後ろは外からステッペンウルフが追撃。前4頭の競り合いから抜け出したのはウィンターフェルで,これまでよりは真面目に走りましたが,馬群を縫うように進出し,最後はウィンターフェルの外に出てきたミューチャリーが目の醒めるような末脚で一気にウィンターフェルを抜き去って優勝。ウィンターフェルが5馬身差で2着。粘るカジノフォンテンは差したステッペンウルフが2馬身半差で3着。
 優勝したミューチャリー鎌倉記念以来の勝利で南関東重賞2勝目。鎌倉記念は時計も着差も圧巻の内容だったので,その後の2戦は物足りない感じを受けていました。たぶん鎌倉記念のときに体重を10キロ減らして激走したことによる反動が大きかったのでしょう。これが本来の能力を反映した結果なのではないかと思います。距離の延長がプラスになるかは分かりませんが,36秒台の末脚は強烈で,重賞でも通用する素質がある馬だと思います。母の従妹に2014年にオークスとローズステークス,2015年に中山記念,2016年にレッドカーペットハンデキャップを勝ったヌーヴォレコルト。馬名の英語表記はMutually。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は京浜盃以来の南関東重賞35勝目。今月はマリーンカップで重賞も勝っています。第58回以来6年ぶりの羽田盃2勝目。管理している船橋の矢野義幸調教師は南関東重賞19勝目。第60回,63回に続き連覇となる羽田盃3勝目。

 第二部定理四三から理解できるのは,数学がある命題に関して真理veritasを帰結させたとき,僕たちがそれを真に認識しさえすれば,僕たちはそれが真verumであることを知るし,かつそれが真であることを疑い得ないということです。そして現に数学はそうした真の命題を提示しているのであって,僕たちはそれを真に認識しています。ですから数学が数学的真理を明らかにしているということを僕たちは知っているのであり,かつそのことを疑い得ないのです。よってスピノザの哲学においては,数学が真理を明らかにするということは,無条件に前提していいと僕は考えます。そして前に示したことから分かるように,それは数学が真理獲得の方法を明らかにしているという意味でもあります。真理の獲得とその方法の獲得は一体化しているからです。数学が明らかにする真理は数学的真理であり,したがってそれによって明らかにされる方法は数学的方法といえるでしょう。したがって一般に数学的方法は,真理を明らかにする方法であることになります。他面からいえば数学的方法が真理を明らかにする方法であるということを僕たちは知っていることになります。よって数学的方法に従って物事を考えることができれば,僕たちは真理を獲得することができるでしょう。
                                   
 僕がスピノザにとって数学の意義というのは,真理を明らかにするということよりは真理を獲得する方法を明確にしてくれるということの方が大きかったと想定するのは,この理由からです。ただしここでは,この数学的方法というのがいかなる方法であるのかということが問題になります。というか,正確にいえば,スピノザがいかなる方法を数学的方法であるとみなしていたのかが重要になるのです。スピノザが認識していたその方法こそが,スピノザが何をもって数学といっているのかということと関係してこざるを得ないからです。
 しかしその検討に入る前に,第二部定理四三をもう少し入念に考察しておきます。というのは,真理というのが真の観念idea veraであり,かつ僕たちが真の観念をもてばそれをもっているということも知り,それを疑い得なくなるとすれば,真理は観念であるということになるからです。
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