スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&両立可能性

2020-07-20 19:05:27 | 将棋
 万松寺で指された昨日の第5期叡王戦七番勝負第三局。持ち時間は1時間。
 永瀬拓矢叡王の先手で相矢倉。先手の仕掛けに後手の豊島将之竜王・名人が対応を誤ったようですが,そこから徹底抗戦。少ない攻め駒で反撃してきましたので,先手が入玉を目指したのは自然と思えます。後手も入玉を目指すことになり,後手の駒が足りるか否かが焦点に。
                                        
 先手が3四のと金を引いた局面。このまま3六で総交換になると後手が1枚多く取られてしまうので,☖3七歩成と逃げました。先手は☗2五とと銀を取って後手は☖同歩と取り返します。
 このときに馬と龍が利いてきたので先手は☗1八銀☖同龍☗3九金☖同玉と2枚捨ててその代償に☗1八馬と龍を取りました。一時的に後手の駒が足りなくなっているので,2六の馬を取られることなく1八の馬を取れば持将棋という局面になりました。
 まず☖2七香と逃げ道を封鎖。☗2八歩とこじ開けにきたところで☖3八銀と駒を足します。☗2七歩と取られたときに取るのは☗2九飛があるので☖4四馬で成銀を取って逃げます。先手は☗4二龍。
 ☖6六馬と取れるようですがそれは☗6九飛の王手馬取りで負け。なので☖3五馬と逃げ☗2六歩と逃げ道を開けたところで☖2七銀打としました。
                                        
 これで後手は馬の捕獲に成功。すぐに持将棋が成立しました。第四局は同日の夜に指されました。

 デカルトRené Descartesの哲学では,思惟的実体と物体的実体substantia corporeaが別々にあり,思惟的実体は神Deusとみなすことができるのに対し,物体的実体は神とは別に存在します。したがって,神の本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するとした場合に,それは思惟的実体の本性に自由な意志が属するという意味になります。いい換えれば物体的実体の本性には自由意志は属しません。そこで,もし現実的に存在する物体corpusの原因causaは物体的実体であるとするなら,諸々の物体は神の自由意志によって生じるわけではないということになります。しかし,物体的実体自体が神の自由意志によって発生すると規定してしまえば,間接的にではあれ,神がすべてのものの創造者であることは確保できます。第一部定理三でいわれていることは,デカルトの哲学では成立しないからです。このことは,デカルトが示した道徳律が,身体の統御という観点からいわれていることから明白です。すなわちデカルトは,理性ratioによって欲望cupiditasを,いい換えれば精神mensによって身体corpusを統御することを道徳の中心に据えました。これが中心に据えられているということは,デカルトはそれが可能であるとみていたことになります。つまりデカルトは,精神が原因となって身体を統御することは可能であるとみていたのです。実際にデカルトがそう主張したのかは別として,これと同じ理屈によって,思惟的実体である神が,物体的実体の原因であることは可能であることになるでしょう。つまり神の本性に自由な意志が属するという主張と,神が万物の創造者であるということが,論理的に両立し得るようになっています。
 スピノザの哲学の場合はそうはいきません。第三部定理二から明白なように,精神が身体の原因であることはできませんし,身体が精神の原因であるということもできません。このことが,第一部定理三から帰結するのですから,思惟の属性Cogitationis attributumが延長の属性Extensionis attributumの原因であることはできないし,延長の属性が思惟の属性の原因であることもできないのです。よって第二部定理六から分かるように,延長の属性は延長の様態modusすなわち物体だけの原因であり,思惟の属性は思惟の様態cogitandi modiすなわち第二部公理三によりまずは観念ideaだけの原因であるのです。
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