スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&ふたつの方法

2020-07-17 20:06:39 | 将棋
 昨日の第91期棋聖戦五番勝負第四局。
 渡辺明棋聖の先手で相矢倉となり先手の急戦。後手の藤井聡太七段が同じ戦型で勝った第二局を踏襲し,先手が改良案を提示する将棋となりました。
                                        
 後手が桂馬を使いにいった局面。ここから☗9五歩☖8六桂☗6八金左と進んでいて,この手順は不思議に思えました。というのはわざわざ桂馬を跳ねさせて手番を相手に与えているからです。しかしどうもこれで8筋から攻める手はないようで,先手としてはこのように形を決めてしまった方が受けやすいという判断だったのでしょう。部分的にはこの判断は正しく,ここで先手は指しやすくなったと感じたのではないかと想像します。
 後手は☖4六歩と反対側に手を付けました。これは放置すると☖4七歩成☗同金から5五で銀を入手して3八に打ち込む手が生じます。これを喰らってはいけませんから☗同銀と取りました。これで手がないようなのですが☖2五金と逃げる手がありました。銀を引かせたことによって金が3六に入る筋が生じているからです。☗1四桂と跳ねれば☖同香でしょうから☗2五飛と取れますが,たとえば第1図で☗3四桂と取れた金ですから,そう指すのはいささか矛盾しているといえます。☗3四歩も有力ですが☖2四銀と出られると☗1四桂の筋が消える上に後手の角が使えそうな形になるので一長一短です。実戦は☗9七角と上がりました。これに対しては☖2六金。
                                        
 これは☗同飛だと☖3四桂と打たれて明らかに不利です。もし事前に☗3四歩☖2四銀としてあればそれは防げていましたが,その場合には☖2六金とはしてこないかもしれないので,このあたりは何ともいえないところでしょう。ただ,第1図の前に☗2六桂と打った手は,この流れでは逆用される形となってしまいました。
 第2図で☗同飛と取れないなら☗8六角以外にありません。ただこの当然の一手に先手は熟慮していて,それはここでは難しい将棋と判断したからでしょう。後手が自信を持てる局面とは思えませんが,直前に指しやすいという判断があったとすれば,その判断のずれは勝負に多少なりとも影響したかもしれません。そしてそうであるなら,それだけ相手のことを認めているということになるでしょう。
 実戦はそこから☖3六金☗5五銀右☖8八歩☗6四銀☖同歩☗同角☖6一桂☗6五桂☖8九歩成と進みました。
                                        
 指し手として勝敗を分けたのは第3図だったようです。ここから☗5三桂不成☖同桂☗7三角成としましたが,この瞬間が甘く☖3八銀から反撃に転じた後手の一手勝ちとなりました。☗7三桂成ならまだはっきりとした決め手はなかったようです。
                                        
 3勝1敗で藤井七段が棋聖を奪取。プロ入りから約3年9ヶ月半で初のタイトル獲得です。

 神Deusの本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するとすれば,その意志は人間の意志の原因causaでなければならないがゆえに,人間の意志とは本性も形相formaも異なったものでなければなりません。スピノザのいい方に倣うなら,もし神の本性に自由な意志が属するとした場合には,神の意志と人間の意志の間には,本物の犬と星座の犬の間にあるほどの相違があることになるのです。スピノザがそのようにいうことができたのにも関わらず,神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereといい,神は自由意志によって働くとはいわなかった最大の要因は,おそらくこの点にあったと僕は推測します。もし神の意志と人間の意志との間には,本物の犬と星座の犬との間にあるのと同じような相違があるのに,神の意志も人間の意志も同じように意志という語すなわち記号で表記するとすれば,僕たちは容易に僕たちの意志によって神の意志を類推するでしょう。すなわち神の意志について容易に混乱して認識するcognoscereことになるでしょう。スピノザはおそらくそういう事態を避けたかったのだと思います。
 このような,同一の記号によって表記されることによって容易に発生するであろう混同を免れるためには,スピノザにはふたつの方法があったと僕には思えます。ひとつは,神の本性には自由な意志が属すると主張し,しかし人間には意志は存在しないとする方法です。そしてもうひとつが,人間は何事かを意志するけれども,神の本性には意志は属さないとする方法です。このふたつの方法のうち,スピノザは後者の手法を選択しました。そしてそのために,意志を思惟の様態cogitandi modiとして規定し,神の本性に属するような絶対的思惟としては規定しなかったのです。そのことを端的に示しているのが第一部定理三一です。そこでは意志は所産的自然Natura Naturataであって能産的自然Natura Naturansではないといわれています。このことの意味は,意志というのは神の本性あるいは思惟の属性Cogitationis attributumに属する絶対的な思惟ではなく,能産的自然としての神の本性ないしは思惟の属性がなければあることも考えることもできないような思惟の様態であるということです。なおかつこの定理Propositioは知性intellectusに言及していますが,第二部定理四九系にあるように,知性と意志は同一なのです。
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