スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スヴィドリガイロフのソーニャ&自由と意志

2020-07-14 19:10:19 | 歌・小説
 スヴィドリガイロフは,『罪と罰』の物語の中では,もうひとりのラスコーリニコフとでもいうべき役割を担っています。すなわち,ラスコーリニコフが自ら犯した罪から回復した人物であるとすれば,スヴィドリガイロフはついに回復することなく,自殺してしまった人物なのです。このことから分かるのは,主人公であるラスコーリニコフにもまた,罪から回復できない可能性があったということです。そしてその場合にはおそらく,ラスコーリニコフは自殺してしまったのでしょう。しかしこのことは逆にいえば,スヴィドリガイロフにも罪から回復する可能性があったということでもあります。もしスヴィドリガイロフの方が回復し,ラスコーリニコフの方が自殺していたのなら,『罪と罰』の主人公はラスコーリニコフではなくスヴィドリガイロフになっていた筈です。スヴィドリガイロフが回復するにはどういう事柄が必要であったのかということが,『『罪と罰』を読まない』の中で話し合われています。
                                        
 ラスコーリニコフが回復することができたのは,ソーニャと出会うことができたからでした。したがって,スヴィドリガイロフが回復するためにも,ラスコーリニコフにとってのソーニャのような人物が必要であったと考えるのが妥当でしょう。ただ,ラスコーリニコフはマルメラードフとの関係からソーニャに出会うのであり,マルメラードフが死んだとき,それはつまりラスコーリニコフとソーニャが出会ったときという意味ですが,そのときにはスヴィドリガイロフは物語にも登場していないのですから,ソーニャ自身がスヴィドリガイロフにとってのソーニャになるということは考えられません。では『罪と罰』の登場人物の中で、だれがスヴィドリガイロフのソーニャになり得たのでしょうか。
 『『罪と罰』を読まない』の中では,この問いに対して答えが出されています。それは,ラスコーリニコフの妹であるドゥーニャです。

 デカルトRené Descartesがいう,理性的見地からのみ区別されるということを,理性的区別であると解するのであれば,デカルトの哲学においてDeusの本性essentiaと神の意志voluntasは理性的に区別されることになります。すなわち,デカルトの哲学において神の本性と神の意志,これは神の自由意志voluntas liberaのことですが,それらは同一のものが異なった観点からみられているということになります。したがって,神は神の自由な意志によってすべてのものの創造者であるというのは,神は神の本性によってすべてのもの創造者であるといっているのと同じであることになります。
 このとき,神の本性がどのようなものであるのかということを別にするなら,神は神自身の本性によってすべてのものの創造者であるという言明は,スピノザにとって受け入れることができる言明です。なぜならこれは,第一部定理一六でいわれていることと何ら相違がないからです。したがって,神の本性に自由な意志が属すると主張するなら,神は神の本性によってすべてのものの創造者であると主張することになります。これがスピノザの考え方に近似しているということ,とくに神が善意によってすべての事柄をなすという主張と比べたときに,神は本性の必然性によって働くagereとしたスピノザの主張に近いということは明白でしょう。第一部定理三三備考二には,このようなことが具体的な意味として含まれているのです。
 逆にいうと,もしスピノザが本性の必然性というのを神の自由な意志と解すれば,スピノザとデカルトとの間にある差異はなお縮まったということになります。ただ,スピノザは本性の必然性に反することは生じることが不可能であると考えていますから,また平面上の三角形の例でいうなら,スピノザの見解に従えば,神は平面上の内角の和が二直角ではない角度にするように意志することはできなかったという必要があります。これだと一般的な考え方として,神の本性に自由な意志が属すると主張していることにはならないでしょう。ただしスピノザは,第一部定義七から分かるように,自由libertasということの意味をそれまでの哲学からずらしていますから,神の自由意志の意味もずらすことは可能だった筈です。
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