スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不死鳥杯&第三部定理五三証明

2017-07-25 19:06:41 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは野原‐脇本‐稲川‐村上の近畿,北津留‐岩津‐橋本の西国で後閑と郡司は単騎。
 村上と岩津がスタートを取りにいき,内の村上が誘導の後ろを確保して野原の前受けに。結果的にこの時点で勝負の趨勢が決していました。5番手に北津留,8番手に郡司,最後尾に後閑という周回に。残り3周のバックから北津留が郡司と後閑まで連れて上昇の構えをみせると野原が誘導を斬ってペースアップしてこれを阻止。コーナーで郡司が後閑を連れてインに潜り込み,位置を確保しにいったのですが村上と接触。おそらくバンクが雨で滑りやすくなっていた影響もあって落車。後閑が村上の後ろに入り,6番手に北津留という8選手での一列棒状で残り2周のホームに。野原が一時的にペースを落としたのでここからまた北津留が発進していきましたが,これに気付いた野原が全開で駆けていき,また一列棒状に戻って打鐘。隊列は変わらずにホームを通過し,バックに入ると脇本が番手から発進。こうなってしまえば後ろはなす術もなく,展開有利に脇本が優勝。マークの稲川が半車身差の2着,3番手の村上も4分の3車身差で3着と近畿ラインの上位独占。
                                     
 優勝した福井の脇本雄太選手は一昨年の福井記念以来の記念競輪優勝で通算5勝目。2014年にも福井記念を優勝していて福井記念は3勝目。このレースは野原が後ろを引き出すことに徹するならこのような単調なレースになることが想定できました。前を取って後ろから動く選手を出させないという走り方をしたので,その想定通りの展開に。村上の後ろに郡司が入っていれば動いたり差したりと違った結果も少しはあり得たのかもしれませんが,ほかの選手ですとそれは無理だったような気がします。

 証明Demonstratioの前提については説明を終えましたので,第三部定理五三の証明に移ります。
 スピノザがここで示しているのは次のことです。まず第二部定理一九により,現実的に存在する人間は,身体の変状affectiones corporisすなわち自分の身体の刺激状態の観念ideaによってのみ,自分の身体が存在するということを知り得ます。また第二部定理二三により,身体の変状の観念ideae affectionum corporisすなわち身体の刺激状態の観念の観念によってのみ自分の精神mensを認識することができます。よって,人間の精神mens humanaが自分自身ならびに自己の活動能力agendi potentiaを観想するということが起こるなら,そのこと自体がその人間にとってより大なる完全性perfectioへの移行transitioです。つまり第三部諸感情の定義二によってこれは喜びlaetitiaです。そしてこのとき,もし観想される自分自身ならびに自己の活動能力がより判然としているならば,その他の条件が一致する限り,判然としている分だけより大なる完全性への移行であるといえるでしょう。したがって表象像imagoが判然としていればしているほど,喜びも大きくなるということになるのです。
 この証明のうち後半部分,すなわち,自己自身ならびに自己の活動能力がより判然としているならその分だけ大きく大なる完全性へと移行しているのであって,だからそれだけ大きな喜びであるということについてはおそらく疑問は出ないものと思われます。そもそもこうしたことは認識cognitio一般にいえるのであって,もし認識するということ自体が大なる完全性への移行であると解する限り,認識されるものの判然性が大きくなればなるほどより大なる完全性への移行であるということになるであろうからです。
 一方,前半部分についても,僕たちが自分の身体および精神を現実的に存在すると認識する様式が,各々の定理Propositioに示された様式でしかあり得ないということに注意すれば,証明自体の成立には問題ないでしょう。ごく単純にいうなら,僕たちが自分の身体および精神を表象するimaginariということの完全性はこの様式のうちにしかないのであって,僕たち自身のうちにあるというものではないからです。なのでこの様式が生じるならば,その様式だけに注目する限り,それは大なる完全性への移行であるだろうからです。
コメント
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