スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯清麗戦&見解の相違

2020-07-07 18:57:20 | 将棋
 4日に指された第2期清麗戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈清麗が14勝,上田初美女流四段が5勝。
 ヒューリック社の会長による振駒で里見清麗の先手で中飛車。後手の上田四段が三間飛車に振っての相振飛車に。固く囲い合う前に戦いに突入しました。
                                        
 後手が桂馬を跳ねた局面。駒を使いにいく手ですが,少しだけ危険な面がありました。
 先手の☗3五歩に☖同飛と取りましたが,これは疑問手で,☖2四飛が優りました。先手は☗6四角と香取りに出て,☖7三桂の受けに☗4六銀左と飛車取りに出ました。☖3四飛の一手に☗3五歩と打ちここも☖2四飛の一手に☗7三角成☖同銀と切り,その代償に☗3六桂と打って事実上の飛車の捕獲に成功。後手は☖4五桂と跳ね☗2四桂に☖3七桂成☗同銀と進めました。
 ここで☗2一飛の王手角取りが厳しい手として残るので☖7二玉と受けたのですが,これも緩手で☖2四歩と取って☗2一飛に☖3一銀を用意した方がよかったようです。実戦は☗7五歩が急所の一着。☖3六歩に熟考して☗7四歩と踏み込み,先手の勝ち筋に入りました。
                                        
 里見清麗が先勝。第二局は10日です。

 僕は第二部定理四三をリアルな真理veritasとして体験しているために,神Deusが平面上の三角形の内角の和を二直角ではないようにすることができたとか,現にそうすることができるとかいう主張に対して,それ自体で疑義を感じます。神の本性essentiaには自由意志voluntas liberaが属すると主張するときには,そうした僕が疑義を感じている主張が含まれてしまいます。よって僕は,この点だけで,神の本性には自由な意志が属するという主張に対しても疑義を感じるのであり,スピノザがいうように,神は本性naturaの必然性necessitasによって働くagereという見解が正しいと考えるようになるのです。よって,最高に完全summe perfectumであるということがどういうことでなければならないのかということを検討する以前の問題として,神は自由な意志によって働くのかそれとも本性の必然性によって働くのかという二者択一を迫られた場合には,僕は後者の方を選択します。よって最高に完全であるということの意味も,神の本性には自由な意志が属するということであってはならず,神は本性の必然性によって働くものであるということでなければならないということが,容易に帰結することになります。つまり,なし得ることの一部だけをなし得る存在者より,なし得ることのすべてをなす存在者の方が,最高に完全な存在者には相応しいという,スピノザの主張に合理性を見出すことになるといえるでしょう。
 僕がこのように考えるということをこうして詳しく分析した場合には,確かにそれは完全性perfectioに関しては見解の相違かもしれないということを認めざるを得なくなります。というのは,なし得ることのすべてをなすことができないがゆえに,その存在者は最高に完全な存在者に相応しいという見解もまた生じ得るということは事実であろうからです。再び平面上の三角形の例でいうなら,平面上に描かれた三角形の内角の和が二直角ではなくたとえば直角であるようにすることが可能な存在者と,それが不可能な存在者とを比較した場合には,それが可能な存在者の方がより完全であるという主張に,一切の合理性がないとはいえないであろうからです。むしろ部分的にみるなら,そちらの方が合理的であるとさえいえるであろうからです。
コメント
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