スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&一般的見解

2020-07-03 19:04:55 | 将棋
 一昨日,昨日と豊橋市で指された第61期王位戦七番勝負第一局。木村一基王位と藤井聡太七段は公式戦初対局。
 振駒で藤井七段の先手となって角換り相腰掛銀。1日目から激しく戦い合う展開になりました。
                                        
 後手の木村王位が4二にいた王を寄った局面。ここから先手は☗2四歩☖同歩と突き捨てておいて☗5四銀☖同歩に☗4五桂と跳ねていきました。☖4四銀で助けるのは難しい形ですが,☗7五歩と突いてこちらに代償を求めにいきました。
 後手は☖4五銀と取って☗7四歩に☖9二角。こう打つと☗7三歩成☖2九角成☗6二と☖4三王までは必然の進行だと思います。ですから第2図で後手は戦えると思っていたと推測されます。
                                        
 ここは手の広いところですが,☗4四歩と打ち☖同王に☗5二とと寄る攻め筋を選択しました。
 そこで☖3九馬と寄ったのは,結果的には負けを早めたかもしれません。ただおそらく形勢が芳しくないとみて,☗4九金打とか☗3八金打などと金を使って受けてくれれば,駒が少なくなって自玉への攻めを緩和できるという狙いの,攻めというより受けの勝負手であったように思います。
 先手は熟考して☗5三銀と王手に打ち☖3三王に☗4四桂と攻めていきました。
                                        
 とても難解なのですが,これで後手玉は寄っていました。☖3九馬とされた局面は,手が開くと☖4八馬と取られて一気に負けになりそうなところ。したがって攻め合いに出るのはとても勇気が必要だと思うのですが,勝ちとみて踏み込んだ判断が素晴らしかったと思います。
 藤井七段が先勝。第二局は13日と14日です。

 デカルトRené Descartesを代表するような哲学者およびキリスト教の神学者が神Deusは最高に完全summe perfectumであるというときと,スピノザが神は最高に完全であるというときに,具体的にどのような相違があったのかを詳しくみていきます。
 基本的にスピノザが生きていた時代に神が最高に完全であるといわれるとき,それは神の本性essentiaに自由意志voluntas liberaが属するということを意味していました。これは哲学者であろうと神学者であろうと変わるところはありません。そして,このような仕方で最高に完全であるということの意味を規定することは,僕自身にとっても理解できないところではありません。これはこのブログの初期にいったことがあったと思いますが,僕がスピノザの哲学を知る前に,世界の始まりが何であったのか,他面からいえばどのような仕方で世界が始まったのかということを考えたときに,それはほかの何にも影響され得ないような意志,すなわち自由な意志によって始まったとしか結論することができなかったからです。もちろん僕はそのときに,自由な意志によって世界を開始した存在者は最高に完全な存在者であるということを意識していたわけではありませんし,またそうした存在者のことを神として強く意識していたわけではありません。ただ同時に僕は,この種の意志が人間に備わっていないということは分かっていましたから,もしそうした意志がその本性に属するものが最高に完全であるといわれれば,それを否定することはなかったでしょうし,同時に最高に完全な存在者であるからにはそれは神といわれるべきだといわれるなら,それについても否定はしなかったでしょう。したがって,神は最高に完全な存在者であって,神の本性には自由な意志が属しているということは,少なくとも僕自身がスピノザの哲学を知る前に有していた認識cognitioなのであり,ですからこのような哲学者および神学者たちの見解opinioについては,理解できるところが多々あるのです。
 ところが,スピノザはこのことを認めません。何が最高に完全であるというのかということをいう前にスピノザは,もし自由な意志がその本性に属するなら,そうした存在者は最高に完全ではあり得ないというのです。
コメント
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