スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

戸口の雑感④&スピノザの見解

2020-07-04 19:01:13 | NOAH
 戸口の雑感③の最後でいったように,タイガー・戸口はキム・ドクとして全日本プロレスで試合をするようになった2日目に,大木金太郎と初めてのタッグを結成しています。このことについて戸口は,嬉しいという気持ちもあったが,気を遣ったとも言っています。とくにこのとき大木は,韓国で交通事故に遭ってから1ヶ月も経っていない時期で,包帯で頭をぐるぐる巻きにしていたため,余計に気を遣わざるを得なかったようです。交通事故というのが実は大事故で,自動車が正面衝突してフロントガラスが割れ,その細かい破片が大木の額に入り込んでしまったようです。このためにタッグ戦での負担は戸口に大きく掛かりました。
 しかし,戸口が気を遣わなければならなかったのは,このことだけではなかったようです。というのは大木というのは身体に柔軟性を欠いていたため,あまり相手の技を受けなかったらしいのです。このために大木はほかの選手,というのは相手の選手という意味ですが,ほかの選手からは嫌われていたと戸口は言っています。なのでタッグマッチではこの点もフォローする必要があり,試合では10のうち10は自分が受けたと証言しています。さすがに10のうち10というのは大袈裟であると僕は思いますが,それでも試合の八割がたは戸口の出番で,大木は残りの二割だけ出て,おいしいところを持っていったと戸口は感じていました。だからとても疲れたのだそうです。この疲れというのが意味するところは,単に身体が疲弊したということだけではなく,精神的にも疲れたという意味が含まれているのではないでしょうか。
 一方で戸口は,この頃のジャンボ・鶴田も,きっと同じような心境だった筈だと言っています。いうまでもなくこの当時の鶴田のパートナーは馬場でした。だから鶴田も馬場には気を遣っていたし,実際に鶴田はそのように戸口に言ったことがあったそうです。ただ,僕の考えでいえば,同じ心境というのとはちょっと違ったような気もします。恩のある先輩とタッグを組むので気を遣ったという点では鶴田も戸口も一緒だったと思いますし,馬場と鶴田のタッグも,鶴田の出番が多くて馬場がおいしいところを持っていったという面が多々あるとは思いますが,そのことで鶴田が精神的に疲弊したということは僕には考えにくいです。また鶴田の身体能力をもってすれば,身体的な疲労も戸口ほどではなかったのではないでしょうか。

 もしある存在者の本性essentiaに自由な意志voluntas liberaが属する場合,そのものは最高に完全summe perfectumではあり得ないとするなら,神Deusの本性に自由意志が属するなら,神は最高に完全ではあり得ないということになります。これは一見したところ不思議な主張に思えるかもしれません。しかしスピノザはなぜそのようにいうことができるのかを丹念に説明しています。
                                   
 仮に神の本性に自由意志が属するとしてみましょう。その場合,神が世界の創造者であるとしたときに,神は自由な意志によって世界を創造したということになるでしょう。神が世界の創造者であるということは,創造の意味をどのように解するのかということには相違があるでしょうが,おそらく認められるところだと思われますので,この部分の仮定は問題ないものとします。そしてその場合は,神の本性に自由意志が属するなら,神は自由意志によって世界を創造したといわなければならないのは当然です。このとき世界というのは,現にある世界のことを意味しなければなりません。これもまた当然です。
 ところで,もし神が自由な意志によって世界を創造したとするなら,神は別の世界を創造するcreareことができたといわなければなりません。このことは,神の本性に自由意志が属すると主張している人びとが認めていることです。したがって,創造されなかった無数の世界が現にある世界のほかに存在し得たことになります。実際のところ,もし神が自由な意志によって世界を創造したというときには,無限に多くのinfinita世界の中から現にある世界が選択されたということを含意していなければなりません。そうでないなら神の本性に属する意志は自由な意志であるとはいえなくなってしまいます。
 これらのことをまとめると,神は自らが意志できたこと,いい換えればなし得たことのすべてをなすことはできないといわなければなりません。無限に多くのうちの中からひとつだけを選択して現にある世界を創造するのですから,むしろなさなかったことが無限に多くあって,ひとつだけをなし遂げたということになるからです。そこでもしなし得ることのすべてをなす存在者がいれば,そちらが最高に完全といわれなければならないでしょう。
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