スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

デイリー盃大井記念&真理と数学

2020-05-21 19:07:15 | 地方競馬
 昨晩の第65回大井記念
 グリードパルフェが先手を奪いにいきましたが,内のオールブラッシュが譲らなかったので控えました。オールブラッシュは先手を奪ってからも緩めずに飛ばしていき,向正面に入るあたりでリードは10馬身以上に。2番手がグリードパルフェで3番手にタービランス。4番手はマルカンセンサーとストライクイーグル。6番手にサブノクロヒョウ。7番手にサウンドトゥルー。8番手にバンズーム。9番手にフレアリングダイヤ。10番手にクインズサターン。11番手にジョーストリクトリでこの10頭は集団。3馬身差でブラックバゴ。3馬身差の最後尾にキャッスルクラウン。前半の1000mは61秒7の超ハイペース。
 直線に入るところでオールブラッシュのリードは4馬身に。まず追ってきたのが内を回ったマルカンセンサーとその外のタービランスの2頭。オールブラッシュは粘り腰を発揮しましたが,タービランスはオールブラッシュを差して先頭に。少し遅れて外から追ってきたのがストライクイーグルとサウンドトゥルーの2頭で,ストライクイーグルが先頭に立ったタービランスを差して優勝。タービランスが半馬身差で2着。オールブラッシュが1馬身4分の3差の3着に逃げ残り,マルカンセンサーがアタマ差で4着。伸びを欠いたサウンドトゥルーが1馬身4分の1差で5着。
 優勝したストライクイーグルブリリアントカップからの連勝で南関東重賞3勝目。ここはタービランス,ストライクイーグル,サウンドトゥルーの3頭が,近況と能力から有力。あとは展開ですが,1頭が後ろを離しての逃げになったため,最も難しい位置取りとなったのがタービランス。積極的に前を追い掛けていきましたが,結果的にそれをいい目標とすることができたストライクイーグルの方に分がありました。能力的には遜色がないでしょうから,次は逆転ということがあってもおかしくはないでしょう。父はキンシャサノキセキ
 騎乗した大井の御神本訓史騎手はブリリアントカップ以来の南関東重賞41勝目。第58回以来7年ぶりの大井記念2勝目。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞17勝目。こちらも第58回以来7年ぶりの大井記念2勝目。

 スピノザはデカルトRené Descartesの哲学については,そのすべてが真理veritasであるということを認めてはいませんでした。それでもデカルトによる分析は,哲学であるということを認めていたわけです。もちろんスピノザはデカルトの哲学の内容のすべてを否定するというわけではなく,デカルトの哲学の中にも真理はあるということには同意します。集合論との関係でいうなら,デカルトは空が存在するということを認めないのであり,この点ではデカルトとスピノザは一致します。ですが,そうであるがゆえにスピノザはデカルトによる分析を哲学であると認めていたわけではありません。いい換えれば,デカルトが分析によって導き出したことのうち,真理だけを哲学と認め,そうではない部分については哲学であると認めなかったのではありません。これは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』のうちに,真理ではない事柄も定理Propositioとして示していることから明らかだといわなければなりません。
                                        
 数学における分析は,それが命題として立てられるのであれば,真理であるとみなして構わないわけです。よって,真理ではない哲学の分析を哲学として認めるのですから,真理だけを導出するような数学の分析については,より数学であると認めやすい筈だといわなければなりません。したがってこの観点からも,スピノザは公理論的方法に基づかない,あるいは幾何学的方法には基づかない,分析による数学,スピノザが知っていたものとしていえば,ホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizによる数学を,数学と認めていたであろうと推測することができるのです。
 したがって,もしも集合論いい換えればカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorの数学が,真理を導き出す数学である限り,スピノザはそれを数学であると認めるであろうと結論しなければなりません。ただしこの点は,存在論的な観点があって,スピノザが空を真理であると認めることが可能であるのかということを検討しなければなりません。このことについては後回しにします。それからもうひとつ注意しておかなければならないのは,集合論というのは,空を対象としなければならないので,公理論的なものでなければならないというのがバディウAlain Badiouの主張であったということです。
コメント
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