『愛するということThe Art of Loving』におけるフロムErich Seligmann Frommのスピノザに対する言及が,どういった文脈となっているのかということを簡単に説明しておきましょう。これは第2章の1節です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/90/036b19a86befd45f0d84138b1b348af6.jpg)
当該の文脈の中でまずいわれているのは,愛とは活動であるということです。しかしフロムは,活動ということにはふたつの意味があるといいます。ひとつは,自分の外部にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり,もうひとつが自分の外部の変化とは関係なしに,自分に本来的に備わっている力を用いるということです。
たとえば,強い不安とか孤独感に苛まれることによって仕事に駆り立てられる人は,あくせくと動くという観点からは活動的とみなし得ますが,後者の観点からはそうではありません。同様に強い野心や金銭欲から仕事に没頭する場合にも同じことがいえます。このように目的に特化した動機から活動的である人をフロムは情熱の奴隷とここでは表現しています。これらの活動は,確かに現代的な意味においては活動とみなされるのですが,能動であるか受動であるかといえば受動です。
一方,静かに椅子に座って自分自身に耳を傾け,世界との一体感を味わうこと以外の目的は持たずに瞑想する人は,何らエネルギーを注いでいるようには見えないので、その観点からは活動的であるとはいわれません。しかしこの瞑想は,自分に本来的に備わっている力を用いるということには妥当しますから,やはりそれも活動であるといわれなければなりません。フロムはここではそれは高度な活動であるといっています。これは能動であるか受動であるかといえば,能動的な活動であるからです。
ここでスピノザへの言及があります。後者の意味においての活動について最も明快に述べたのがスピノザであるといわれるのです。本当にスピノザがそれを最も明快に述べたのかは僕には分かりませんが,スピノザがそう述べていることは確かです。なので文脈上はフロムは誤りを犯していないと僕は考えます。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがいう意志voluntasが,絶対的思惟というのに近い側面があるというのは,同じように人間は意志するといっても,スピノザとニーチェは同じ思惟作用についてそのようにいっているのではなく,そういうことで人間の異なった思惟作用について言及しているという点と関連しています。スピノザは意志と知性intellectus,すなわち個々の意志作用volitioとその意志作用によって肯定ないしは否定される観念ideaは同一であるといっているのですが,ニーチェはそれに対していえば,意志は観念を超越する思惟作用であると考えているのです。基本的にニーチェがいう力への意志Wille zur Machtは,観念を超越した意志のことであると解して間違いありません。とくにスピノザの哲学との比較でいうなら,そのように解釈するのが妥当であるといってもいいでしょう。
本来的な面からいうと,力への意志という概念notioが,ニーチェのスピノザに対する否定であるとみられるとき,重要なのはそれが観念を超越する意志であるという点にあるのではありません。この概念は,ニーチェがそれを意識していたかどうかということは別として,スピノザの哲学に対していえば,コナトゥスconatusへの対抗馬という色合いが濃く滲み出ています。ニーチェはコナトゥスというのをきわめて反動的な概念と解しました。ある人間が現実的に存在するとき,その人間がその現実的存在を超越することを否定しているような概念とニーチェには見えたからです。したがって力への意志というのは,人間が現実的存在を超越するための概念,あるいは同じことですが,今ある自分自身をさらに超越して大きくなっていくための概念であるといえます。他面からいえば,ニーチェは人間は現実的存在を乗り越えていくことができるという意味で超越論的な思想を有していたのであって,その超越論的な哲学を構築していくために,力への意志という概念を必要としたということができるでしょう。
哲学史的な観点からいえば,スピノザの哲学もニーチェの哲学も,原則的に内在の哲学に属する思想です。ですがスピノザとニーチェを比較した場合には,スピノザの哲学が徹底した内在の哲学であるのに対し,ニーチェには超越論的要素が含まれるのです。
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当該の文脈の中でまずいわれているのは,愛とは活動であるということです。しかしフロムは,活動ということにはふたつの意味があるといいます。ひとつは,自分の外部にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり,もうひとつが自分の外部の変化とは関係なしに,自分に本来的に備わっている力を用いるということです。
たとえば,強い不安とか孤独感に苛まれることによって仕事に駆り立てられる人は,あくせくと動くという観点からは活動的とみなし得ますが,後者の観点からはそうではありません。同様に強い野心や金銭欲から仕事に没頭する場合にも同じことがいえます。このように目的に特化した動機から活動的である人をフロムは情熱の奴隷とここでは表現しています。これらの活動は,確かに現代的な意味においては活動とみなされるのですが,能動であるか受動であるかといえば受動です。
一方,静かに椅子に座って自分自身に耳を傾け,世界との一体感を味わうこと以外の目的は持たずに瞑想する人は,何らエネルギーを注いでいるようには見えないので、その観点からは活動的であるとはいわれません。しかしこの瞑想は,自分に本来的に備わっている力を用いるということには妥当しますから,やはりそれも活動であるといわれなければなりません。フロムはここではそれは高度な活動であるといっています。これは能動であるか受動であるかといえば,能動的な活動であるからです。
ここでスピノザへの言及があります。後者の意味においての活動について最も明快に述べたのがスピノザであるといわれるのです。本当にスピノザがそれを最も明快に述べたのかは僕には分かりませんが,スピノザがそう述べていることは確かです。なので文脈上はフロムは誤りを犯していないと僕は考えます。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがいう意志voluntasが,絶対的思惟というのに近い側面があるというのは,同じように人間は意志するといっても,スピノザとニーチェは同じ思惟作用についてそのようにいっているのではなく,そういうことで人間の異なった思惟作用について言及しているという点と関連しています。スピノザは意志と知性intellectus,すなわち個々の意志作用volitioとその意志作用によって肯定ないしは否定される観念ideaは同一であるといっているのですが,ニーチェはそれに対していえば,意志は観念を超越する思惟作用であると考えているのです。基本的にニーチェがいう力への意志Wille zur Machtは,観念を超越した意志のことであると解して間違いありません。とくにスピノザの哲学との比較でいうなら,そのように解釈するのが妥当であるといってもいいでしょう。
本来的な面からいうと,力への意志という概念notioが,ニーチェのスピノザに対する否定であるとみられるとき,重要なのはそれが観念を超越する意志であるという点にあるのではありません。この概念は,ニーチェがそれを意識していたかどうかということは別として,スピノザの哲学に対していえば,コナトゥスconatusへの対抗馬という色合いが濃く滲み出ています。ニーチェはコナトゥスというのをきわめて反動的な概念と解しました。ある人間が現実的に存在するとき,その人間がその現実的存在を超越することを否定しているような概念とニーチェには見えたからです。したがって力への意志というのは,人間が現実的存在を超越するための概念,あるいは同じことですが,今ある自分自身をさらに超越して大きくなっていくための概念であるといえます。他面からいえば,ニーチェは人間は現実的存在を乗り越えていくことができるという意味で超越論的な思想を有していたのであって,その超越論的な哲学を構築していくために,力への意志という概念を必要としたということができるでしょう。
哲学史的な観点からいえば,スピノザの哲学もニーチェの哲学も,原則的に内在の哲学に属する思想です。ですがスピノザとニーチェを比較した場合には,スピノザの哲学が徹底した内在の哲学であるのに対し,ニーチェには超越論的要素が含まれるのです。