先生が戦争未亡人である奥さんの家に下宿することが決まって,与えられた部屋は,八畳の座敷でした。これは先生が奥さんから面接を受けたときの部屋。さらに控えとして四畳間がついていて,後にKも下宿するようになると,本間と控えの間の仕切りとして,例の襖が立てられることになるわけです。自分に割り当てられたこの部屋について先生は,この家の中で最もよい部屋であり,当時の書生が暮らす一般的な部屋よりもずっと立派であり,自分の身には過ぎるくらいだったといっています。
先生はただこのように記しているだけですが,よく考えてみたら不自然だといえなくもありません。いくら無人で寂しいという理由で下宿人を探していたとはいえ,その下宿人に,家中で最もよい部屋に住まわせるというのは,常識からは外れているようにも思えるからです。しかし,もしも奥さんが下宿人を探しているという体面で,実際にはお嬢さんの結婚相手を探していたのだというようにテクストを読解するなら,この部分も自然に読み込めるようになります。
もしも夫が戦死する前にこの家に奥さんたちが住んでいたと仮定すれば,当然ながらこの部屋はその夫が使用することになった筈です。実際には夫の死後に越してきた家ですから,面接をこの部屋で行ったように,客間として利用していたのでしょう。ただ,もしも一家の主が使うべき部屋というのがこの家にあったのなら,それはこの部屋以外になかったと思います。つまり先生が下宿人として割り当てられた部屋は,この家の主人が使用するべき部屋であったことになります。なぜそういう部屋を奥さんが先生に対して与えたのか。それは先生が,後々にはお嬢さんと結婚し,この家の新しい主人となるべき存在であると規定していたからだと理解すれば,奥さんのこの行動も,自然な成り行きとして解釈することができるようになります。
奥さんは最初からお嬢さんの結婚相手を探していた。そして先生がそれに選ばれた。このように読むと,『こころ』には合点の行く部分が多くなると思います。
「私はみなす」あるいは「私は解する」というタイプの定義Definitioに,第三部定義三があります。この定義の方が,スピノザが何を前提としてそのようにいっているかをより容易に理解できると思います。そこでこれを検討します。
「感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し,促進しあるいは阻害する身体の変状[刺激状態],また同時にそうした変状の観念であると解する(Per Affectum intelligo Corporis affectiones, quibus ipsius Corporis agendi potentia augetur, vel minuitur, juvatur, vel coercetur, et simul harum affectionum ideas.)」。
これがこの定義の主文です。この部分は単に「解するintelligo」といわれているので,何も問題を含んではいません。
これまではここまでの文章を第三部定義三と規定してきました。前述したようにこれが主文なので,それで十分であったからです。でも実際には,この定義には続きの文章があります。
「そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら,その時私は感情を能動と解し,そうでない場合は受動と解する」。
「私は解する」という形式のテーゼになっていることはお分かりでしょう。
現状の観点とは無関係ですが,ここで初めて示した定義の続きの文章自体について,このブログとの関連で,いくつか説明しておきたいことがあります。
まず,そうした変状affectioといわれているときの変状は,基本的に身体corpusの刺激状態のことです。このブログでいう身体の変状affectiones corporisのことではありません。ただ,これまで定義と規定していた主文の方にあるように,感情Affectumは身体にも精神mensにも一様に用いることが可能なので,このブログでいう身体の変状,つまり身体の刺激状態の観念ideaと理解したとしても,大きな間違いが生じるわけではありません。身体の刺激状態と理解しておく方が安全であるというほどの意味だと考えてください。
それから妥当な原因というのはcausa adaequataの訳語です。これはこのブログでは十全な原因といわれます。単に訳語の違いがあるだけで,概念上の相違は何もありません。これは第三部定義一で定義されている概念notioで,そこでも妥当と訳すか十全と訳すかの相違が生じているのと同じことです。
先生はただこのように記しているだけですが,よく考えてみたら不自然だといえなくもありません。いくら無人で寂しいという理由で下宿人を探していたとはいえ,その下宿人に,家中で最もよい部屋に住まわせるというのは,常識からは外れているようにも思えるからです。しかし,もしも奥さんが下宿人を探しているという体面で,実際にはお嬢さんの結婚相手を探していたのだというようにテクストを読解するなら,この部分も自然に読み込めるようになります。
もしも夫が戦死する前にこの家に奥さんたちが住んでいたと仮定すれば,当然ながらこの部屋はその夫が使用することになった筈です。実際には夫の死後に越してきた家ですから,面接をこの部屋で行ったように,客間として利用していたのでしょう。ただ,もしも一家の主が使うべき部屋というのがこの家にあったのなら,それはこの部屋以外になかったと思います。つまり先生が下宿人として割り当てられた部屋は,この家の主人が使用するべき部屋であったことになります。なぜそういう部屋を奥さんが先生に対して与えたのか。それは先生が,後々にはお嬢さんと結婚し,この家の新しい主人となるべき存在であると規定していたからだと理解すれば,奥さんのこの行動も,自然な成り行きとして解釈することができるようになります。
奥さんは最初からお嬢さんの結婚相手を探していた。そして先生がそれに選ばれた。このように読むと,『こころ』には合点の行く部分が多くなると思います。
「私はみなす」あるいは「私は解する」というタイプの定義Definitioに,第三部定義三があります。この定義の方が,スピノザが何を前提としてそのようにいっているかをより容易に理解できると思います。そこでこれを検討します。
「感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し,促進しあるいは阻害する身体の変状[刺激状態],また同時にそうした変状の観念であると解する(Per Affectum intelligo Corporis affectiones, quibus ipsius Corporis agendi potentia augetur, vel minuitur, juvatur, vel coercetur, et simul harum affectionum ideas.)」。
これがこの定義の主文です。この部分は単に「解するintelligo」といわれているので,何も問題を含んではいません。
これまではここまでの文章を第三部定義三と規定してきました。前述したようにこれが主文なので,それで十分であったからです。でも実際には,この定義には続きの文章があります。
「そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら,その時私は感情を能動と解し,そうでない場合は受動と解する」。
「私は解する」という形式のテーゼになっていることはお分かりでしょう。
現状の観点とは無関係ですが,ここで初めて示した定義の続きの文章自体について,このブログとの関連で,いくつか説明しておきたいことがあります。
まず,そうした変状affectioといわれているときの変状は,基本的に身体corpusの刺激状態のことです。このブログでいう身体の変状affectiones corporisのことではありません。ただ,これまで定義と規定していた主文の方にあるように,感情Affectumは身体にも精神mensにも一様に用いることが可能なので,このブログでいう身体の変状,つまり身体の刺激状態の観念ideaと理解したとしても,大きな間違いが生じるわけではありません。身体の刺激状態と理解しておく方が安全であるというほどの意味だと考えてください。
それから妥当な原因というのはcausa adaequataの訳語です。これはこのブログでは十全な原因といわれます。単に訳語の違いがあるだけで,概念上の相違は何もありません。これは第三部定義一で定義されている概念notioで,そこでも妥当と訳すか十全と訳すかの相違が生じているのと同じことです。