スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯清麗戦&デカルトとライプニッツ

2020-07-11 19:02:52 | 将棋
 昨日の第2期清麗戦五番勝負第二局。
 上田初美女流四段の先手で里見香奈清麗のごきげん中飛車。①-Aから4筋で銀が向い合う形。先手が新しい攻め方を繰り出しました。
                                        
 第1図から☗2四歩☖同歩と突き捨てておいて☗3七桂と跳ねます。もっともこれは前例がありました。後手が☖3二金と備えたところで熟慮し☗4五銀とぶつけました。これが新手。ただ,2筋を突き捨てておかないとこの局面で☖1五角と出る手がありますから,事前にある程度の研究があったものと推測します。
 後手は☖2三金と応じました。この手は金が遊んでしまう可能性が高いので指しにくいように思います。仮に僕の推測の通り,先手に研究があったのだとしても,この手を深く研究していたという可能性は低いように思います。
 先手は☗4四銀と取って☖同角に☗4五桂と跳ねました。対して☖6二銀と交換したばかりの銀を打って受けたのは意外だったのですが,ここでは最善手だったように思います。ここから☗7七角☖1二香☗2九飛☖6三銀右と進みましたが,これは先手に有効な手段がなかったためでしょう。そこで☗1五銀と打ちました。
                                        
 長引けば遊びそうな後手の金を目掛けてここに銀を打っていくのはあまり芳しい攻め方とは思えません。こういう攻め方しかないのであれば第2図はすでに先手が作戦負けしているということになりそうです。
 里見清麗が連勝。第三局は31日です。

 スピノザが強く否定するのは,Deusの外に目的finisを立てるということです。したがってそれは善bonumであるかということとは関係ありません。スピノザは,自然Naturaのうちに目的が存在するということ自体を否定するのです。神が善意によってすべての事柄をなすという見解opinioは,神の外に善という目的を立てているがゆえにスピノザから強い否定を受けるのですが,それはその目的が善であるから否定されているわけではなく,善という目的が立てられているがゆえに否定されていると理解してください。
 スピノザが神の本性naturaの必然性necessitasというとき,意図されているのは第一部公理三に示されている必然性です。そしてここで原因causaといわれているのは,起成原因causa efficiensを一律に意味します。いい換えればスピノザは起成原因以外の原因を認めません。ところで,神が善意によってすべての事柄をなすとき,神はなされる事柄に対して原因であるということは認められるでしょうが,その原因は起成原因であるとは認められません。すでに説明したように,神は必然的にnecessario善意を選択するのですから,これは善という目的を達成するための原因です。よってこの場合は神は起成原因であるわけではなく,目的原因causa finalisであるということになります。ですからこの主張は,神が本性の必然性によってすべてのものの原因である,すべてのものの起成原因であるという主張には程遠いのです。第一部定理三三備考二におけるスピノザの主張は,このような原因性の概念notioも含んでいると考えられます。というのも,神が自由意志voluntas liberaによってすべての事柄をなすという場合は,神は目的原因とはならず,起成原因としての原因性を保持するからです。
 このことはデカルトRené Descartesの見解を検討するとよく分かります。というのも,スピノザがこの備考Scholiumで示していることを,哲学史的な観点からみるなら,これは『知の教科書 スピノザ』でもいわれているように,神が自由な意志によってすべての事柄をなすというのはデカルトの見解であり,神が善意によってすべてのことをなすというのはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの見解であるからです。つまりこの備考が含意するのは,デカルトはライプニッツほどは誤っていないということでもあるのです。
コメント
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