スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

泗水杯争奪戦&力

2015-02-24 19:12:05 | 競輪
 年に1度の昼間開催,四日市記念の決勝。並びは岡田-武田-平原-浦川-稲村の関東と浅井-村上の中部近畿で内藤と大塚は単騎。この並びでの関東結束は驚きでした。
 スタートを取ったのは浅井でそのまま前受け。岡田が3番手,4番手の武田の後ろを,ラインの平原と単騎のふたりの3人で取り合うような周回に。残り2周のホームで岡田が上昇。浅井は迷わず引きました。このとき,武田の後ろはインに大塚,外が内藤で,この競りの後ろに平原。そのまま岡田がふかしていって打鐘。武田の後ろは内藤が競り勝ち,大塚は後退。今度はインから平原が追い上げて内藤との競り。バックに入ると武田が発進。しかし早めに引いて前を見据えて捲った浅井のスピードが断然で,あっさりと武田を差して優勝。マークの村上が4分の3車身差の2着で中部近畿のワンツー。展開的には絶好だった武田は半車身差の3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は昨年の四日市記念以来の優勝で記念競輪12勝目。地元となる四日市記念は連覇で2勝目。ここはレース展開は読みやすく,番手から発進するだろう武田を捲れるか捲れないかの力勝負。その勝負に勝ったということでしょう。ただあまりにあっさりと捲ったという印象はあり,武田は本調子にないと考えておくべきかもしれません。力は非常に安定していて,決勝はほとんど外さないし,大敗もほとんどしないのですが,1着は意外と少ないタイプ。ですがコンスタントに力は発揮しているわけですから,記念競輪はもとより,ビッグで優勝という可能性も,出走するなら常にあるといえると思います。

 俗に「やればできる」という表現があります。しかしただそういい立てているうちは,実際にやればできるかどうかは不明です。実際にやってみることによってしか,その表現を正当化することはできません。
 このことから理解できるように,潜在的な意味においてできるということは,何らの力potentiaでもありません。力とみなし得るのは実際にやるということのうちにしかないのです。
 このことを哲学的に記述するならば,力とは可能的possibilisなものではなくて,現実的なものであるということになります。そしてスピノザの哲学の力は,そのように規定されていると理解するべきであると僕は考えます。スピノザは必然と不可能を対義語とします。これはすなわち必然とは力であり,不可能とは力と真逆の意味において無力impotentiaであるという意味に解することができます。一方,偶然と可能は,第一義的には,人間の知性intellectusのような有限知性の認識cognitioの限界に関連してのみ規定されます。すなわち,現実的な力ではあるけれども必然的necessariusだと理解しきれないことが偶然といわれ,現実的な力ではないにも関わらず不可能であるとは理解しきれないことが可能といわれるのです。スピノザが可能的な力は認めず,ただ現実的なものとしてのみ力を規定していることは,これらの概念notioの措定の仕方からも明白であると僕は考えます。
 したがって,たとえば人間には理性ratioによって事物を認識するcognoscere力があるという言明は,実際にその人間が理性的に事物を十全に認識している場合には有効ですが,そうでない場合,たとえば人間が事物を表象している場合には無効であると把握しておくのが的確であると僕は考えています。理性による事物の認識は確かに人間の力ではありますが,それは抽象的な意味において人間の知性に備わった力であるということをスピノザの哲学では意味しないと僕は考えるのです。それは人間は理性的に事物を認識することが可能であるという意味なのであり,力を現実的なものと規定するスピノザの哲学には相応しくない理解の仕方であると考えるからです。もちろん理性だけでなく,あらゆる意味で力と規定できるものについて,これが妥当すると僕は考えています。
コメント
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