スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ナッソーステークス&論証の再生産

2020-07-31 18:59:56 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にイギリスのグッドウッド競馬場で行われたナッソーステークスGⅠ芝9ハロン197ヤード。
 ディアドラは3頭が併走した3番手の外という位置取り。ただ,内の馬との間隔を開け,1頭だけ外を回るようなレースでした。発走後が長い直線,急カーブがひとつあってまた長い直線というコースで,位置は変わらないまま直線に。手応えはかなりよさそうに見えたのですが,いざ追われるとまったくといっていいほど伸びず,残り200mを過ぎたあたりで最後尾に下がると,あとは流したままフィニッシュ。勝ち馬からおよそ8馬身4分の1差で7着でした。
 昨年は勝っているレースなので,コースの適性には問題がなかった筈です。昨年は内を突く形で勝ったのに対し,今年は外を回ったので苦しくなったという見方はできますが,それにしても直線であまりにも伸びが悪かったように思えますから,それだけを敗因とするのは無理がありそうです。体調が整っていなかったのかもしれませんし,あるいはゲートに入ることを嫌がっていたように,レースをするということに対して気持ちが乗っていなかったということもありそうです。

 『エチカ』がスピノザによる思考の実験の場であったとしたら,スピノザは何らの目的なしに,というのは何か論証したいこと,他面からいえば自身が主張したいことなしに公理系を構築していったと解さなければなりません。それでこそ,それは思考実験となり得るからです。ですが僕はそのことは肯定し難く思います。そもそも『エチカ』という表題自体が,ある種の目的なり主張なりを表していると僕には思えます。しかし一方で,そこには確かに実験といえる側面もあったと思います。少なくとも『エチカ』で論証されていることのすべてを,スピノザが当初から主張しようとしていたというのは,無理があるように思えるからです。それどころか,そうであったものの方が少ない可能性の方が高いように思えますから,それは実験の場であったといういい方は,『エチカ』のありようを示していることを僕は肯定します。
                                        
 こうしたことは,ある定理Propositioが論証されると,その論証された事柄がさらなる論証Demonstratioを生産していくという,公理系のシステムによります。したがって『エチカ』で主張されていることの中には,そのシステムに従うことによって,いわば自動的に証明されていった事柄が多く含まれている筈で,なおかつその中には,スピノザが当初は予想もしていなかったことが含まれていることでしょう。この自動的な論証の生産システムが,蜘蛛が巣を張るようなシステムであるとニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはみていた面もあるでしょう。この生産システムの中から生じてくる事柄は,スピノザすなわち形而上学者が意図的に証明している事柄であるのではなく,スピノザが規定した神Deusすなわち絶対に無限な実体substantiaの本性naturaの必然性necessitasによって.自動的に論証されていく事柄であるからです。神が自由意志voluntas liberaによって働いているうちは,神は形而上学者たちによって蜘蛛の巣を張り巡らされていて,神が本性の必然性によって働くagereようになると,神自身が蜘蛛になって巣を張るようになるという部分の意味は,この『エチカ』の論証システムに対しては,適切な比喩であるとみることができます。
 秩序ordoであれシステムであれ,『エチカ』を蜘蛛の巣に喩えることには,一定の妥当性があります。
コメント
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