スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不死鳥杯&観念と意志作用

2020-07-26 19:13:34 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは高橋‐坂口の中部,脇本‐松岡‐東口の近畿①と伊原‐村上の近畿②。
 伊原がスタートを取って前受け。3番手に高橋,5番手に脇本で周回。残り2周のホームに入っても動きはなく,それぞれのラインの間で車間が開きました。誘導が残ったバックから脇本が発進。打鐘から伊原が抵抗し,村上の牽制も入ったため,相互の脚力からすれば時間は掛かりましたが,ホームで伊原を叩いて前に。ラインの3人で出きると,4番手の伊原との差が開きました。村上が自力に転じて前を追っていきましたがさほど差は詰まらず。前の3人の争いとなり、差はいくらか詰まったものの並びの順でフィニッシュ。優勝は脇本。1車輪差の2着に松岡。4分の3車身差の3着に東口。
                                      
 優勝した福井の脇本雄太選手は先月の高松宮記念杯以来の優勝。記念競輪は2017年の福井記念以来の優勝で通算7勝目。2014年2015年にも優勝しているので福井記念は3年ぶりの4勝目。脇本は記念競輪に出走することが少ない選手で,実際に優勝した福井記念以来3年ぶりの出走。ここは近畿と中部の選手だけで7車立てですから,当初から負けられない開催でした。野原も村上もそれなりに抵抗はしましたが,力の違いをみせつけました。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学における意志voluntasが,絶対的思惟に近い側面があるというのは次のようなことです。
 第二部定理四九系から分かるように,スピノザの哲学では意志と知性intellectusは同一です。これは,意志というのはpotentiaという観点からみた限りでの知性であるということです。スピノザの哲学における意志は個々の意志作用volitioの総体を意味し,知性は個々の観念ideaを意味します。よってこれは,個々の意志作用は力という観点からみた限りでの個々の観念であり,この意味において個々の観念と個々の意志作用と同一であるということです。このことはこの系Corollariumが第二部定理四九の系であるということからよく分かるでしょう。すなわち、ある観念にはその観念に特有の意志作用というものがあって,観念はそうした意志作用がなければあることも考えることもできないし,逆にそうした意志作用はその観念がなければあることも考えることもできないのです。
 この関係については何度かいっていますが,ここでも改めて説明しておきます。平面上に三角形が存在するとき,この三角形の内角の和は二直角です。これを観念と意志作用の関係でいえば,三角形の観念には,その内角の和が二直角であるということを肯定する意志作用が含まれているということになります。もしある知性のうちにこれを肯定する意志作用がなければ,その知性のうちには平面上の三角形の観念がない,より厳密にいえば,平面上の三角形の十全な観念idea adaequataがないということを意味するのです。一方,ある図形について,その図形の内角の和が二直角であることを肯定する意志作用がある知性のうちにあるためには,その知性のうちに平面上の三角形の観念が存在するのでなければなりません。この意志作用が肯定することができる対象は,平面上の三角形の観念だけであるからです。このようにしてある観念はその観念を肯定する意志作用がなければあることも考えることもできず,一方である固有の意志作用は,その固有の意志作用が肯定することができる観念がなければあることも考えることもできません。このようにして,ある特定の観念とそれを固有に肯定する意志作用は,同一のものであるとスピノザは主張します。

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