スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

阿波おどり杯争覇戦&なし得ること

2020-07-05 18:50:26 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは河端‐清水‐松浦の中国と島川‐太田‐原田‐小倉の徳島。
 前受けが河端で4番手に島川の周回。島川が動いて残り2周のホームで河端を叩くと,河端は引いて前後のラインが入れ替えわっての一列棒状となって打鐘。ここから島川が全力で発進。河端の捲りは残り1周のホームの出口から。しかし前に届く前にバックから太田が番手捲りを敢行。河端は浮いて一杯になり,清水は小倉の後ろにスイッチ。直線は太田の番手から踏み込んだ原田が差して優勝。太田が1車輪差で2着。小倉も1車身半差の3着に続いて徳島の上位独占。インを突いた松浦が半車輪差の4着で外を回った清水が4分の1車輪差の5着。
 優勝した徳島の原田研太朗選手は2月の松阪のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は2017年1月の松山記念以来の4勝目。小松島記念は初優勝。このレースは小倉以外の6人は自力で動けるタイプ。それが4対3の二分戦になりましたから,島川と河端のどちらが先行するかが,優勝者を決する最大の焦点。やはり地元4人で並んだ島川の先行意欲が高く,打鐘から全力での先行に。太田も河端がまだ来ないうちから発進しましたので,絡まれずに太田の後ろを回ることができた原田が有利になりました。今月から記念競輪は7人制で行われることになっていますが,二分戦になるとさすがに展開面での有利不利が大きく出そうです。

 なし得ることのすべてをなす存在者としてスピノザが規定するのが,すべての事柄をその本性の必然性によってなす存在者です。すべての事柄がある存在者の本性naturaの必然性necessitasによってなされるのであれば,その本性の必然性に則した事柄は必然的にnecessario生じることになりますし,逆にその本性の必然性に反する事柄は生じることが不可能なことであることになるからです。このことを示しているのが第一部定理一六です。この定理Propositioでは神の本性の必然性necessitate divinae naturaeといわれていますが,当然ながらそういわれている神というのは第一部定義六でいわれている神Deumのことですから,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamのことです。いい換えれば,ある存在者が絶対に無限であるならば,そのものの本性の必然性から,無限に多くのinfinitaことが無限に多くの仕方で生じるのです。よって絶対に無限な実体は,なし得る事柄のすべてをなす存在者であり,なし得ることのすべてをなし得ないような存在者,つまりそれが自由意志voluntas liberaがその本性essentiaに属する存在者のことですが,そうした存在者よりも完全であることになるのです。したがって,絶対に無限な存在者は,同時に最高に完全な存在者であるということが帰結するのです。
                                   
 僕はこのスピノザの見解に合理性があると理解しましたから,神の本性に自由な意志が属するという主旨の考え方についてはそれを改めることになりました。そしてスピノザ主義の立場に立つことを選択したのです。ただし,何を最高に完全summe perfectumというのかということについては,見解の相違が生じ得るということだけは認めます。具体的な例を挙げてそのことを説明しておきましょう。
 平面上に三角形が描かれれば,その内角の和は二直角になります。このことについては,神の本性に自由な意志が属することを肯定するか否定するかに関係なく,現実的な事実として成立すると仮定してください。このとき,それが神の本性の必然性から生じるのだとすれば,平面上に描かれた三角形の内角の和が二直角であるということは,神の本性の必然性に則しているからそうなるのであり,その内角の和が二直角ではないということは,神の本性の必然性に反することなので生じることが不可能だということになります。
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