5日に城崎温泉で指された第5期叡王戦七番勝負第二局。
豊島将之竜王・名人の先手で角換り相腰掛銀。中盤で永瀬拓矢叡王が相手の指し手次第では千日手で構わないという角を飛車取りに打ちましたが,先手は打開。ただし打開したことによって形勢を損ねたように思います。後手有利の終盤戦でしたが,先手玉を攻めるよりも自玉が確実に入玉できるような選択をしたため,先手も入玉に成功。最終的に持将棋となりました。
相入玉で持将棋を目指すと,将棋というゲームの本質が変わりますので,特有の手筋が出ることがあります。この将棋はそれが分かりやすい形で現れました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/a7/9ebf6a6aa3591972d2a62fd6df5e1da5.png)
第1図で☗1一金と打つのがその手。将棋の本質が,自分の玉が詰まされないようにしつつ相手の玉を詰ますという点にあるのだとすれば,これは何をやっているのだか分からないような手です。ですがここに金を打つことによって,先手は小駒を1枚確実に入手することができます。この手によって先手は持将棋に持ち込むことが可能になったのですから,この場合はこの一手というくらいの指し手になります。
第三局が19日に指されることは確定しています。持ち時間について私見を述べておけば,この第二局は規定によって指し直さなかったので,持将棋として完結させ,第二局までは豊島竜王・名人からみて1勝1時将棋とし,19日には1時間の持ち時間で第三局と第四局を指すのが合理的だと思います。第七局の持ち時間が6時間であることは確定事項なので,もし第八局以降が生じる場合には,すべて6時間の持ち時間で指すというのがいいのではないでしょうか。
第二部定義六から分かるように,スピノザの哲学では完全性perfectioが実在性realitasと等置されます。したがって,なし得ることのすべてをなす存在者と,なし得ることのすべてをなし得ないけれど,なし得ることが多い存在者のどちらが完全かという二者択一となれば,前者が完全であるという結論しか出てきません。なし得ることのすべてをなし得ないというとき,なし得ることが実在的realiterであるのに対しては,なし得ないことは非実在的であることに該当するからです。これも三角形の例で考えれば分かりやすく,もし神Deusが自由意志voluntas liberaによって平面上の三角形の内角の和を二直角にしたというのであれば,内角の和が二直角である三角形は実在的有entia realiaですが,内角の和が二直角ではない三角形は実在的有ではない,いい換えれば非有であるあるいは無であることになるでしょう。しかし神の自由な意志によってこのことが決定されているのなら,神は平面上の三角形の内角の和が二直角でないようにすることもできたし現にすることができるというのでなければなりません。したがって非有である事柄あるいは無である事柄が神の本性essentiaに属することになるので,もし実在性と完全性を等置するということであれば,その場合の神が最高に完全summe perfectumであることはできないでしょう。なぜなら,神が本性naturaの必然性necessitasによって働くagere限りにおいては,平面上の三角形の内角の和は必然的にnecessario二直角になるのであって,それが二直角にならないということは不可能だということになります。よってこの場合は神の本性からは実在的有だけが帰結し,非有ないしは無は,何も帰結することがないということになります。よって少なくとも本性の必然性によって働く神は,自由な意志によって働く神に対しては,より実在的であるすなわちより完全であるということになるのであって,自由な意志をその本性に含む神が最高に完全であるということはなくなるからです。
この場合にも,完全性と実在性とを等置するか否かということは見解として分かれ得るということを僕は認めます。なので,完全性をこれとは異なった仕方で定義できるのであれば,自由な意志を本性として含む神を最高に完全といい得る余地は残るでしょう。
豊島将之竜王・名人の先手で角換り相腰掛銀。中盤で永瀬拓矢叡王が相手の指し手次第では千日手で構わないという角を飛車取りに打ちましたが,先手は打開。ただし打開したことによって形勢を損ねたように思います。後手有利の終盤戦でしたが,先手玉を攻めるよりも自玉が確実に入玉できるような選択をしたため,先手も入玉に成功。最終的に持将棋となりました。
相入玉で持将棋を目指すと,将棋というゲームの本質が変わりますので,特有の手筋が出ることがあります。この将棋はそれが分かりやすい形で現れました。
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第1図で☗1一金と打つのがその手。将棋の本質が,自分の玉が詰まされないようにしつつ相手の玉を詰ますという点にあるのだとすれば,これは何をやっているのだか分からないような手です。ですがここに金を打つことによって,先手は小駒を1枚確実に入手することができます。この手によって先手は持将棋に持ち込むことが可能になったのですから,この場合はこの一手というくらいの指し手になります。
第三局が19日に指されることは確定しています。持ち時間について私見を述べておけば,この第二局は規定によって指し直さなかったので,持将棋として完結させ,第二局までは豊島竜王・名人からみて1勝1時将棋とし,19日には1時間の持ち時間で第三局と第四局を指すのが合理的だと思います。第七局の持ち時間が6時間であることは確定事項なので,もし第八局以降が生じる場合には,すべて6時間の持ち時間で指すというのがいいのではないでしょうか。
第二部定義六から分かるように,スピノザの哲学では完全性perfectioが実在性realitasと等置されます。したがって,なし得ることのすべてをなす存在者と,なし得ることのすべてをなし得ないけれど,なし得ることが多い存在者のどちらが完全かという二者択一となれば,前者が完全であるという結論しか出てきません。なし得ることのすべてをなし得ないというとき,なし得ることが実在的realiterであるのに対しては,なし得ないことは非実在的であることに該当するからです。これも三角形の例で考えれば分かりやすく,もし神Deusが自由意志voluntas liberaによって平面上の三角形の内角の和を二直角にしたというのであれば,内角の和が二直角である三角形は実在的有entia realiaですが,内角の和が二直角ではない三角形は実在的有ではない,いい換えれば非有であるあるいは無であることになるでしょう。しかし神の自由な意志によってこのことが決定されているのなら,神は平面上の三角形の内角の和が二直角でないようにすることもできたし現にすることができるというのでなければなりません。したがって非有である事柄あるいは無である事柄が神の本性essentiaに属することになるので,もし実在性と完全性を等置するということであれば,その場合の神が最高に完全summe perfectumであることはできないでしょう。なぜなら,神が本性naturaの必然性necessitasによって働くagere限りにおいては,平面上の三角形の内角の和は必然的にnecessario二直角になるのであって,それが二直角にならないということは不可能だということになります。よってこの場合は神の本性からは実在的有だけが帰結し,非有ないしは無は,何も帰結することがないということになります。よって少なくとも本性の必然性によって働く神は,自由な意志によって働く神に対しては,より実在的であるすなわちより完全であるということになるのであって,自由な意志をその本性に含む神が最高に完全であるということはなくなるからです。
この場合にも,完全性と実在性とを等置するか否かということは見解として分かれ得るということを僕は認めます。なので,完全性をこれとは異なった仕方で定義できるのであれば,自由な意志を本性として含む神を最高に完全といい得る余地は残るでしょう。