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霜後桃源記  

安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係

荒川先生

2007-06-21 19:05:54 | 思い出
荒川先生は仙台時代にPTAの大会や市の大会でバレーボールのチームメイトとして一緒に闘った仲間。
普段は温厚な方だが、ゲームが始まるとファイトを剥き出しにしたガッツ溢れるプレーをするナイスガイだった。
高校ではボート、大学では陸上競技が専門。しかし、持ち前の運動神経の良さでアタックでもブロックでも何でもこなした。
それだけではなく、試合以上に盛り上がる祝勝会や反省会では歌って良し、踊って良しの芸達者でもあり、話しも面白いのでPTAのお母さん方の人気者であった。

「あれから30年…」
その荒川先生が思い出深い西多賀小学校の校長として戻って来た。
我々夫婦とは「遊びの世界」でのお付き合いしかなかったが、「教育者としても立派な方だったのだ」と惚れ直し、ささやかな「祝賀会」を開催したのは昨年のニ月のことだった。

その先生が、健康を害し一年早くこの三月で教育現場から勇退することを決めた。
30数年に亘る教育者としての活躍に敬意を表し、懇意にしていた数組の夫婦が集まって「退職慰労会」を福島の相馬で開催した。

「お酒を暫く断ったところ体重が10kg以上も減った」とのことだったが、元気にビールもお酒も呑んでいたのでまずは一安心。
お互いの気心を知り尽くしている仲間には、いつまでも元気で居て欲しいと心底願っている。



退職しても教育者としての血が騒ぐのか写真のような素敵な色紙を頂戴した。
最後の仕事である卒業式の式辞で話した言葉だという。
「座右の銘」として大切にするつもりでいる。

「教職員の皆さんに初めて退職を表明したとき、涙を流す人も何人か居た」とのこと。
このことからも先生のお人柄がしのばれる。

年一回はお互いの元気な姿を確認し合うことを約束して帰路についた。
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「わが師の恩」 その二

2007-06-07 19:10:45 | 思い出
先生は、数学が専門だった。
話しの節々に「オイ、オイ」が入るので、ニックネームは「オイ、オイ」。
三年の時は、本当に薄く価格も僅か90円の問題集を「これだけマスターすれば十分」と言って配布した。その問題集は卒業後も大いに役立った。
黒板に「He has something」と書き、「彼はひとかどの人物である」と意訳された。教え子に「ひとかどの人物」になって欲しいとの願いを込めたのだと思うが、その願いがどの程度叶ったかは分からない。
「かど」だけはしっかりと身に付け、周囲と揉め事ばかり起こしている教え子が少なくとも一名居ることだけは確か。

先生には「物事を本質的に捉えることの大切さを教わった」とはオバサンの弁。

これまで5~10年間隔ぐらいで何回かクラス会を開催して来た。
しかし、数年前に開催の打診をしたところ「もう歳なので参加は遠慮したい」とのことだった。
先生への「恩返し」はこれで終わったものと思い、それ以後クラス会を開催するつもりはなかった。
ところが、たまたま4月にクラスメイト数名で先生のご自宅を訪問する機会があった。
大病を患い、二度の大手術を終えたばかりということだったが、83歳とは思えない明晰な頭脳と毒舌は健在だった。
その時も「クラス会の参加は無理なので、副担任のK先生を囲んでやってくれ」と話しておられた。

その後クラスメイトの数人から「開催」を希望する声を聞いている内に、自然にその気になった。
先生には「ご自宅まで車で送迎するので、短時間でよいから顔を出して欲しい」とお願いし了解を頂いた。 
10年前に購入し、ガソリン代高騰で持て余し気味となっている愛車のクラウンが送迎車として役に立ちそうだ。
勿論、送迎役は優等生だったHさんにお願いし運転手にはオバサンを指名するぐらいの配慮が無いと恩師に「名幹事」とは言って貰えないだろう。

当初、クラス会の案内状は「オイオイを聞く会」として格調高い文章で作成したのだったが、往復ハガキを印刷する際に上手く行かず、諦めて標準パターンの文面を使って発送した。
申し込み締め切りは今月末。
何人のクラスメイトが「参加」に丸印を付けて返信して来るか楽しみだ。
今回は多そうな気がするのだが…。



収穫の始まったスナックエンドウだが最近の曇天続きで成長が遅くなった。
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「わが師の恩」その一

2007-06-06 20:16:13 | 思い出
高校三年の時、態度はあまり良くなかったが真面目な生徒だったオジサンが、三日連続で学校をサボタージュしたことかあった。

同じクラスだったオバサンへの片想いで辛い日々を送っていた時期に、後の席に座っていた女生徒が「彼女はI君が好きなのよ」と誰かに囁くのを耳にし大きな衝撃を受けた。
実はこれはガセネタだったのだが、その時は知るよしもない。
その夜から、モンモンとして眠れぬ夜を過ごし、学校などどうでもよくなり、三日三晩布団の上で七転八倒しながらのた打ち回っていた。

その地獄のような苦しみから何とか脱却し「相手がどうであろうと自分の気持ちは変わらない」という悟りに近い心境に落ち着いた三日目の午後、担任のY先生が自転車で訪ねて来られた。
休んでいる理由について特に問い質すこともなく「このような会社から求人が来ているので受験してみないか」と受験申込書を持って来てくれたのだった。

進路は「進学希望」だったのだが、「経済的に苦しいのではないか」と先生は判断されていたようだ。
結局は、その会社に40年近く勤めることになったのだから、人生の岐路というのは何処に転がっているか判らない。

この時の「恩返し」の気持ちで、卒業後クラス会の幹事を務めている。

 (以下明日に続く)



ビニールを外し、骨組みだけとなった3~5号のハウス。今日の雨でかなりの水を吸うことができた。
奥には「竹の秋」を迎えた竹林が見える。
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愛妻弁当

2007-04-20 22:30:21 | 思い出
オジサンは、サラリーマン時代にいつも鞄を持って会社に出かけた。
しかし、鞄の中に入っているのは書類とかではなく弁当だけだった。
会社に食堂があったが、そこは利用せずいつも「愛妻弁当」を食べていた。

この「愛妻弁当」、若い頃はそれほど感じなかったが、歳を重ねる毎にその愛の重みを強く感じるようになった。
昼休みに「愛妻弁当」を食べると午前の疲れが取れ、午後の仕事へのファィトが湧いて来るように感じられた。

弁当を作るためのオバサンの苦労は並大抵のことではなかったが、そのお陰でオジサンは健康で元気に会社人生を送ることができたと感謝している。



今日は久し振りに春のような陽気となった。
家の周辺のあらゆる所にスイセンが咲き乱れている。
待望のハクモクレンもようやく花を開き始めた。
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息子の石頭

2007-04-04 18:33:44 | 思い出
肋骨を負傷したのは、今回で三回目となる。
前回は数年前の春のことだった。
田んぼが水不足となり堤の水も枯れてしまったので、ポンプを使って川から上げる準備をしていた時に事故が起きた。

急斜面の土手で、その時も切り株か何かに足を取られ、数メートル下に立ってた居た息子の頭上に覆い被さるように転落し、そのまま息子も巻き添えにして更に数メートル下の川まで転落してしまった。
川底は岩盤がむき出しとなっていて危険な状態だったが、ずぶ濡れにはなったものの奇跡的に二人とも負傷をしなかった。
しかし、最初に息子の石頭と衝突した際に肋骨を痛めてしまった。
その時も、2ヶ月ほど痛みが消えなかった。

「オヤジの石頭」で苦労する息子の話しは良く聞くが、「息子の石頭」で苦労したオヤジの話しはあまり聞いたことがない。(?)



スイセンは世界各地で10000種類以上も栽培されているという。
こんなミニスイセンもある。

今回の野良猫騒動で負った傷も、当然未だ痛みがあり寝返りをうつにも苦労していて、大好きなスポーツも今週は自粛している。
しかし、オジサンが身を犠牲にして追い払ったかの野良猫は、よほど懲りたらしくその後姿を見せなくなった。
バアチャンにその「功績」を褒め称えられたことは言うまでも無い。
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