津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」ニ四、薩摩の春

2021-10-24 06:53:35 | 先祖附

      ニ四、薩摩の春

文禄五年、秀吉に随つて肥前名護屋に出陣中、幽齋は特命をうけて薩州へ赴いた。島
津貴久の第三子にして義久の弟なる歳久といふ者、かねてより、島津氏が秀吉に降伏
したことを快しとせす、朝鮮への出征も拒み、あまつさへ部下の多數が梅北黨にくみ
して内亂を起すといふ騒ぎになつた。年の七月幽齋は問責使として派遣されたもの
で、尋常の外交使節とはちがふ。彼は積年、義久と親密の間柄ではあつたが、まかり  
ちがへば刀の柄に手をかける場合も起らう。六十歳になんとしてこの重任に擇ばれた
彼は、老いても甲を被り馬に跨つて、なほ用ふべきある勇將にちがひなかつた。
 義久が素直に謝罪し歳久を自刃せしめたので、幽齋は抜きかけた刀を鞘に納めた。
その時、まだ名古屋から指令が來て、ついでに薩・隅・日三箇國の檢地を見届けよと
のことなので、旅程は延長され、文禄二年の正月を鹿児島の旅館で迎へた。さて公務
のすべてを果した彼は、漸く歌心を起し、
 あづまより越えくる春も隼人の薩摩路とほく立つ霞かな
 などと詠んだが、誰か好敵手はと探して、新納忠元を思ひ浮かべた、忠元はおのれ
よりも十歳ほど長者なので、呼びつけるは無禮だらうと、二月某日、こちらから訪問
した。忠元の家は城下町の東端、海岸の丘上に在つて、活火山櫻島と相對してゐた。
 忠元はいふまでなく文武の名將、九州きつての歌人だが、都の歌仙の入來をいたく
恐縮し、「拙老如き田舎歌よみが」と謙遜して、多くを語らなかつた。「御近什」を
と再三請はれて恥づかしげに、
 あじきなや唐土までもおくれじと思ひしことは昔なりけり
 の一首を書いて差出した。これは昨年四月、名護屋出帆の主君義弘を見送つた時の
述懐だと説明した。幽齋つくづく敬服して、「都の歌人の及ぶ限りでない」と挨拶す
れば、忠元倍々恐縮し、今度は詠草を都に送つて合點を乞ふ旨、眞劍な顔して依頼し
た。
 忠元が陣中火縄の明りで古今集を勉強したといふ話は、上方までも聞えてゐたが、
幽齋ふとこれを思ひ出し、可笑しさが抑へきれなくなつた。火縄の明りで讀書が出來
るか。さやうのことをしたならば、武人に大切の視力を弱めてしまふ。見ると忠元の
眼光は炯々としてゐた。朽木谷の一件も、もしも自分が偉くなつたならば、後世の物
識の輩、幽齋は螢雪の學をしたと傳紀し、泥棒したとは信じまい。「貴殿は本當に火
縄の明りで」といふやうな頓馬な質問は幽齋はしなかつた。
 去月廿六日戰はれた碧蹄館の噂も出て、話柄はおのづから戰爭に及んだ。さうなる
と、歌のことでは謙遜であつた忠元の態度が一變し、侃々諤々で、主張を曲げない。
加藤清正なんぞは、往年相手にして見たが、さ程のことはなかつたといふ。然らば當
今誰が最も強勇かと訊くと「義弘公」と言下に答へた。
 夕暮深く玄關に出ると、櫻島山は落陽の餘光を浴び、暗紫色になつてゐた。

 

          新納忠元の肖像画の画像 | 戦国ガイド 新納忠元

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