津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■歌を唄いました・・

2021-10-16 18:13:04 | 熊本史談会

 今日の史談会は元・熊本ジェーンズ邸館長の黒田孔太郎氏の「熊本の明治維新・熊本洋学校教師ジェーンズの業績」をお聞きした。
誠に有意義なお話で90分の講演では少々物足りなさを感じた。又、再度のお話を伺いたいというのが出席者ほとんどの思いであったろう。
何故、この偉大な人物・ジェーンズがが全国区にならないのか、まずは熊本人の意識改革が必要だと感じたことである。

処で講師の黒田先生は元・小学校の校長先生、大学では国語を選考されたと理解していたが、熊本県音楽教育研究会会長なども務められた方で、熊本で数少ないファゴットの奏者でもある。
講演の途中では一息入れましょうと、お持ちになったリコーダーで人吉の著名な犬童球渓の作詞による「旅愁」を演奏され、導かれるままに出席者は思いがけぬ合唱をした事であった。

御仕事柄とはいえ、マイクなしの中良くとおる声でお話しいただき、18頁に及ぶ資料も頂戴して大いに満足した一日であった。感謝・・

             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■久しぶりのヤフオク落札

2021-10-16 16:59:55 | オークション

      

 昨日のブログで触れた「幕藩制確立期の諸問題」は手元に持っているわけではない。
随分以前この本の所在を知り「日本に古本屋」で探したりしていたが、タイミングが悪かったのか手に入らずにいた。
昨日たまたまその中の朝尾直弘氏の論考を引用して、ふと探してみる気になったが見つからない。
Yahooの検索欄に何気に打ち込んでみたら、なんとオークションに安価で出品されていた。即決落札した。
外箱は御覧の通りくたびれている。昭和35年発刊の本だからこれは仕方がない。たとえ朱線が引かれていても、書き込みがあってもあまり気にしない。
論考が読めればそれで良し、これがすべてである。

慶長・元和そして熊本入国までの寛永前期の史料はなかなか見当たらない。
これでいくつか「小倉細川藩年表稿」に書き込みが出来そうに思える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」一六、小田原陣(續)

2021-10-16 06:46:07 | 書籍・読書

     一六、小田原陣(續)

 東國陣道之記によれば、幽齋が小田原に著いたのは三月中旬で、戰ひは既に始まつ
てゐた。箱根山中の遭遇戰で田邊の侍一柳某が討死したことを郷里の遺族へ知らせて
やると、一如院長老これを耳にしたと見えて、早速陣中へ弔文を寄せ、その末に一首
の和歌を書いてよこした。
 あはれなり一つ柳のめも春にもえ出でにける野べの煙は
 弔文を讀み反して幽齋は笑つた。
「檀那藝を戒めながら、おのれもいつの間にか坊主藝をやりおる。さうして偈を考へ
るよりも歌は気樂ぢや、とぬかしをる。禪坊主といふものは、昔も今も喰へぬしろも
のだ。」
 かやうに一如院を批評したが、返歌せぬは敵にうしろを見せたも同然ゆゑ、
 いと毛なき具足をかけて鐵砲の玉にもぬける一つ柳か
 と俳諧歌めいたものを作り、返書の中にしたためながら、
「坊主には、この本歌取りはわかるまい。それとも。古今集ぐらゐは覗いてゐて、遍
照光明とでも笑ひくさるか。」
 韮山は敵の支城で、要害頗る堅固、しかも勇將のほまれ高き北條氏規が精兵七千を
以つて死守したのだから、寄手も攻めあぐんだ。寄手のなかには蒲生氏郷、福島正則
それから幽齋父子も加はつてゐた、早耳の一如院、又これを聞き込み、
 山の名のにらみあひたる攻め衆よにんにくひかせてもたべ
 と揶揄して來た。幽齋むつとして、
「いかに坊主でも、ちと口が過ぎるわい。戰争を何と心得てゐる。人を茶にしたこの
狂歌、秀吉公のおめにかけたならば、坊主ッ首はとんでしまふぞ。幽齋は友達冥加、
秀吉公へは隠してつかはす。いのち冥加の坊主めが。」
 腹を立てたものの、可笑しくもなつて來た。にら・にんにくの縁語の使用など、な
かなか味なところもある。どれ、この度も返歌してつかはそう。
 ひかせえずもみ落とすべき韮山は手をすりこ木の音のみぞする
 實際寄手は手古摺つたのであつた。數箇月包圍して陥落せず、氏規が小田原城に引
揚るまで、眼にくやし涙をためてにらんでいるばかりであつた。尤も、それだから氏
郷や幽齋が弱かつたといふことにはならぬ。秀吉が例の鷹揚な戰法で、徒らに味方を
殺すまいため、遠巻を命じたからでもあつた。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■袖判による借銀

2021-10-15 10:07:46 | 史料

 

この写真は偶然「西南大学セミナー史料」としてWEBで見つけたものだが、実はこの借用状については先にご紹介した「逃げる百姓、追う大名」に詳しく紹介されている(p184)。

 写真が鮮明さを欠いているので内容の判読がむつかしいが、銀参拾貫目(丁銀)の借用状である。
「壱ヶ月壱貫目ニ付拾五匁(年利18%)宛之利足相定候」とあり「此袖判者越中守判形也、少茂無沙汰申間敷候」とある。
小篠次太夫・仁保田兵衛・浅山清左衛門・横山助之允・長岡式部■等の惣奉行と家老等五名の名前が連なり、右肩に「細川越中守(忠利の花押)」があり、これがいわゆる「袖判」とよばれるものである。
藩主の個人借り入れではなく「家中借り入れ」であることが判る。
日付は「元和拾年■正月廿九日」、この年は二月三十日に改元されるから、その直前のものであることが判る。
この借銀の相手方はこの文書では判らないが、上記「逃げる百姓」では、大阪の淀屋であり約定は履行され、その年の末には返済も完了している。書状の裏に淀屋の受け取りの記載がある。そしてそれぞれの花押が消され、この借銀の一件が無事完了したことを著している。小篠・仁保の花押が消されていないのは、この時期二人が惣奉行の職を離れていたことによる。

 一方、熊本大学教授が「東光原」に投稿された「大名の証文」に、寛永二年の同じく忠利の袖判借銀の証文が紹介されているが、その説明で吉村教授はこの借り入れは「借銀返済」のための新たな借銀だとされている。
具体的なことは記されていないが、このころから細川家の自転車操業的財政危機が見て取れる。

ちなみに大阪歴史学会編の「幕藩制確立期の諸問題」にある、朝尾直弘氏の論考「上方から見た元和・寛永期の細川家」によると、元和八年(1622)五月から寛永二年(1625)二月までの、大阪における借銀のトータルは、48件・4,227貫に及ぶという。
吉村教授ご指摘の自転車操業であったのだろう。ああ・・・
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」一五、小田原陣

2021-10-15 06:43:58 | 熊本

    一五、小田原陣

 大袈裟な小田原攻圍戦は、天正十八年三月、東海の櫻花爛漫の季節に開始された。
何事にも好奇心の強い秀吉は、しばしば石垣山の本營から抜け出して、いくさぶり視
察の微行をしたのであつた。或時、早雲寺付近の谷間を下りて來ると、向うの杉木立
の影から一かたまりの黒い影が動いて來た。怪しみつつ侍臣に問へば、
「細川二位法印の部下に相違ございません。」
 と即答した。秀吉微笑しながら、
「幽齋の黒備へか。徳川殿には井伊の赤具足といふのがある。幽齋は歌人ぢやによつ
て、澁い好みを出し居つたな。」
 幽齋の軍紀は嚴しかつた。將士の服装などに就いても、常に注意を怠らなかつた。
刀に鞘袋を掛けた者があると、見付け次第とり外づさせ、長草履は無用、必ず脚絆を
巻かせた。治に居ても亂を忘れぬ心構へだ。當時の武士が漸く華美を好み、大小に金
銀をちりばめ、鎧の縅に花模様を出す等々のこと流行し始めたので、幽齋は眉をひそ
めた。殊に小田原の長陣は、それらの流行の展觀場のやうだつたので、田邉の將卒に
は、甲冑はいふに及ばず、旗指物まで黒一色と命令したのであつた。但、馬までも黒
馬を揃へたか否か、ちょいと疑問ではある。
 幽齋は又、長陣に参加して、諸將の人柄や、戰ひぶりの長短などを、親しく研究す
ることが出来た。音に聞いた程の猛者でない豪傑もゐれば、案外に勇敢な無名者もあ
る。弓、鐵砲を好む者もゐれば、槍一筋で猪突する流儀の者もある。勝負はどうなつ
ても、潔く死にさへすれば本望と考へる者がゐる。勝ちさへすれば武士の作法などは 
糸瓜の皮と、悪く悟つた者もゐる。部下の手柄を盗んで自分が立身しようといふ者も
ゐれば、自分の取つた首を仲間の馬の鞍に下げてやる者もある。無闇と留守宅へ音信
する者もあれば、妻子から手紙が着いても封さへ切らぬ者もゐる。かすり疵を吹廳す  
る者もあれば、大怪我してもけろりとした者もゐる。金放れのよい小名もあれば、け
ち臭い大名もゐる。
 獨眼龍が遙々十字架を擔いで來て秀吉に謁したといふ噂が擴がつた時、幽齋苦笑し
つゝ忠興にいふには、
「政宗といふ男は田舎者ぢやて。さやうな芝居で秀吉公を舐めたと思ひおるか。彼は
和歌を嗜むと聞いたが、存外野暮な男だよ。」
 忠興は眞顔になつて、
「父上、仰せではありますが、正宗殿は不敵の猛將でございます。」
「さうさ。いくさは強からうよ。」
 幽齋が最も推服したのは、蒲生氏郷であつた。氏郷が北條方の夜襲を逆撃して歸て
て來た時は、兜と鎧と槍の柄とに合計十一箇所の太刀疵を受けてゐた。幽齋出迎へ、
その手を執つて押し戴いたといふ。彼はおのれよりも二十二歳若輩の名將に、満腔の
敬意を拂つてゐたのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■二日がかりの読書「逃げる百姓、追う大名」を読む。

2021-10-14 13:07:37 | 書籍・読書

 一昨日の散歩が応えて昨日は取りやめ、終日読書で過ごした。宮崎克則氏著「逃げる百姓、追う大名」である。
今日は朝から病院行きして定例の検査を受ける。午後からはこの本の精読で過ごすことにする。
この本はかなり早い段階で購入したが、2002年初版の中公新書で、豊前時代の細川家に於ける百姓の領内からの逃亡や、逆に隣国からの入込などが主題にしてある。
また、松井家にゆだねられた幕府領「湯布院」の開発と農民の関わり合い、その他、干ばつや「惣銀」などで立ち行かなくなった家臣の救済の有様など、大変興味深い。

          逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦 (中公新書)

 この時期、家臣に給される知行は「地方(じかた)知行」であり、それぞれが知行地を直接支配したが、干ばつや水害など知行地ごとに条件が異なる。
知行の高下に係わらず家計が立ち行かなくなっている。2,000石を拝領しているs氏の家計再建策なる物が示されており、「袖判」における借銀で充当し、翌年の米を大阪に運んで利益を得、これを年利4割で貸し付けるという次第である。
数年後には潤沢な利益を生むという夢のような計画だが、これが計画書通りにいったかどうかは判っていない。
また、忠利の奥方の実家筋である細川家家臣の小笠原家・5,000石も立ちいかなくなり家禄の一部を返上し、軍役の免除を受け、特別貸与を受け、藩の介入による財政再建に陥った。当然その職務も制限された。

 ましてや、下級武士の救済はどうであったろうか。我が家の先祖の生活もいかばかりであったろうかと考えてしまう。
「地方知行」は延宝八年(1680)に廃止され、家臣の知行はすべて「蔵米知行」となる。
細川家の豊前入国から80年経過している。

 ここにある「惣銀」「袖判」といった言葉を、100%理解させてくれる研究書に未だ出くわしていないが、この本がわずかながら理解を進めてくれそうである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」一四、豊臣秀吉

2021-10-14 06:39:45 | 先祖附

     一四、豊臣秀吉

 幽齋の家集なる衆妙集を披くと「八月十五日夜關白殿大佛殿のうしろの亭にて月を翫
び、それより聚樂亭に歸らせ給うて和歌會侍りしに」と詞書し、明月の歌一首載せて
ある。
 天正十六年、中秋の日も夕べに迫つて、聚樂第から使者が見え、大佛殿まで至急参
るやうとの吩咐であつた。折から幽齋は、朝鮮國へ遣はさるべき外交文書の草稿を添
削中であつたが、なほ悠々と朱を加へ、さて筆を擱いて、打裂羽織の紐を結びながら
玄關に出た。
 大佛殿の書院に待ちくたびれてゐた秀吉は、下座に辭儀した幽齋を見つけ、
「明月の登るもおそいが、幽齋の現はれるもおそいことぢや。」
「月のおそいのは東山に妨げられるからでございますが、拙者の遅刻は、關白さまの
御文書といふ、山よりも重いものに塞かれたゆゑでございます。」
 阿彌陀ヶ峰の頂上の松が、うしろから照らす月光をうけて、はつきりと描き出され
たとき、
「うしろの山に登らう。」
 と秀吉は幽齋を促した。利休の作にかゝる茶室におちついて、二人は心ゆくまで月
華の流れを賞した。滴る水の音が響く。
「うつくしい月夜ぢや。聚樂が落成して引移つた晩も、ずゐぶん見事な月夜であつ
た。」
「御意の通り。あれは九月十三夜でございました。明年の名月は。」
「京城と申すか。予はさらに遠方を考へてをるぞ。」
「さらに遠方と仰せられますのは、先頃接見遊ばされました宣教師の國の・・・。」
「幽齋、阿彌陀ヶ峰は高かろうな。」
「關白さまの御威光でも、一夜に石段は築かれますまい。五百段では足りませぬ。」
「眺望は利くであらう。」
「秋から冬へかけまして、空の澄み切つた朝などには、大阪城のお天守が見えると申
します。」
「海もみえるかな。」
「夕陽の沈む間際には、八幡山崎の豁けたあひだ、西南の空に、茅渟の海の水平線が
望まれると申します。」
「さやうなところで、永劫の月見が致したいわい。」
「今宵も永劫の中の一夜、月の光に現當の差別はございませぬ。お歌をどうぞ。」
「幽齋、その方の歌を聽かう。」
 幽齋はしばらく黙つてゐたが、やがて静かな聲で、
 月こよひ音羽の山の音に聞く姥捨山の影も及ばじ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」一三、刺客

2021-10-13 06:25:23 | 書籍・読書

     一三、刺客

 細川藤孝に攻められて、由良川のほとり、中山の彌勒堂で割腹した一色義道のため
に、遺臣小野木某は復讐を企て、數年藤孝をつけ狙つたが、乗ずべき隙がなかつた。
 天正十六年若葉の季節、洛中は聚樂盛儀の取沙汰で賑はつていた。
「幽齋も必ず入洛してゐるに相違ない。お祭りさわぎで油斷も多かろう。」
 かう考へて小野木は京都に入り込み、等持院裏門の百姓家に泊つた。ところがある
日、ふと面白い噂を耳にした。
「二位法印さまは、小禽を連れて三條通を逍遥なさる。」
 犬を引いての散策ならば珍しくもないが、小禽をお伴とは受取れない。しかしなが
ら、幽齋は、本當に噂の通りの散歩をしたのだ。
 彼は愛禽家であつた。戰國武將の間に小禽鑑賞の流行した事實は、當年の文獻によ
つても證明される。小田原征伐のとき、箱根の農家が飼つてゐた一羽の鶉を、伊達政
宗と藤堂高虎とが、非常な高價を拂つて奪ひあひをしたといふような話も殘つてゐ
る。さて、幽齋は、鶯はもちろん、目白も、頬白も、山雀も、四十雀も、雲雀も飼養
して、これらの羽族の奏でる音樂に聴き呆けた。
「深山頬白といふ奴が峠の木で鳴く。これほど幽玄な聲は他に無い。俊成卿も御存知
なかつたらう。」
 などと、自分の小禽通を得意になつたりもした。小禽の世話は幽齋みづからした。
世話をすることが、樂しみの一つでもあつた。それゆゑ彼はいつも早く起き、福島正
則のやうな朝寝坊はしなかつたのである。今度の入洛には、就中愛玩の山雀一羽を從
者の數に加へた。さうして、朝飯前に必ず散歩した。
 旅館から數歩、三條通に出た幽齋は、西から東へとゆるゆる歩いた。山雀は町屋の
屋根の上をピヨン/\跳びながら跟いて來る。幽齋は時々振返つて、屋根を仰ぎ、小
禽の跟いて來るのを確かめては、安心してまた歩き出す。手を振つて合圖したり、口
笛を吹くこともある。
 小野木は、とある人形師の家の軒下に忍んでゐたが、いきなり飛び出して、背後か
ら斬りつけた。ひらりと身をかはした幽齋、狼藉者の利腕を取つた。瞬間、狼藉者は
溝石に叩きつけられ、鼻からも口からも血を噴き出した。
 往還の男女あわてて逃げ散り、静かになつた街上を、幽齋はまた東へと歩き出し
た。山雀は四五軒さきの屋根を跳んでゐた。
 幽齋の膂力は絶倫であつた。かういふ話が殘つてゐる。北畠信雄の邸で能樂の催さ
れたとき、門を入らうとすると、番人制して竹杖をふり上げた。嚇怒した幽齋、竹杖
もろとも番人の手を握ると、骨まで砕けてしまつた。番人は主人の費用で有馬に湯治
した。またあるとき、貴人の牛車があばれ、いきほひ込んで向うから走つて來た。幽
齋立はだかり、えいやとばかり牛の角を握つて、七八間がほど押戻した。碁盤で燈
火を煽ぎ消したこともある。かういふ強勇なのだから、刺客の三人や五人片付けるの
は、朝飯前だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■6日ぶりの散歩

2021-10-12 11:24:21 | 徒然

                 

 6日間も散歩をさぼってしまった。少し後ろめたいものがあって今日は9時半過ぎに出かけ、4.1㌔を55分かけて歩いた。
まだ完全に疲れが抜けていなくて、スピードは上がらないし足元がふらついている。
Drのご託宣によると、小脳の縮小が原因との事だが、なんだかどんどん縮んでいるような気がする。

良い天気が連日つづき、今日も真夏日になる事は間違いない。
とぼとぼあるいていると、70前くらいのご夫婦が脇をすり抜いて行かれた。
奥さんが「イワシ雲よ」と空を見上げて居られたが、旦那さんの方はしばらく眺めていて「あれはイワシじゃなくて鯖だな」と返している。
「久しぶりにスシローに行って、鯖すしを食いてえなー」という落ちが付いた。
その後の話は、とぼとぼ爺さんは距離を開けられてその結論を聞いていない。(わたしも食いたい・・・)
しばらくして証拠の「鯖雲」を携帯で撮影したが、もう鯖の態をなしていなかった。


コロナ禍の中で、散歩もままならなかった人たちが外に出始めているのを感じる。熊本は昨日の感染者はは2人、ワクチン接種の効果が表れているのだろう。
生鮮食料品のマーケットや、ホームセンター等も賑わっている。かっての日常が戻りつつある。

すっかり夏バテ(散歩バテ)してしまった私の日常は、体力の回復を待たないと図書館に出かけることもままならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」一二、聚樂第

2021-10-12 09:13:06 | 書籍・読書

       一二、聚樂第

 關白豊臣秀吉がその居館聚楽第に、後陽成天皇の行幸を仰ぎ奉つたのは、天正十六
年四月のことであつた。盛儀の御模様は豊鑑巻三「内野行幸」の章に精しく書かれて
ゐる。風輦は月の十四日に著御あつて、五日間駐まり給うた。秀吉好きの道なので、
十六日には盛大な歌會が催され、御製を下し給うた。作者實に七十人、過半は堂上の
公卿達だが、秀吉、信雄、家康、秀次、秀家、利家、秀康、秀政、氏郷、信秀、長重
義統、直政、高次等々の諸豪傑参加し、幽齋父子ももちろん出詠した。
 當日早朝から幽齋は参殿して、玉座に近からぬ一室に坐り、「松風祝」の題下に作
らえた大勢の人々の詠草を添削するに忙しかつた。中には代作を依頼した豪傑も數人
あつた。幽齋は拙劣なる歌の加筆に疲れては、折々泉水を眺め、石の上に遊ぶ鶺鴒に
眼をやるのであつた。其處へ子息の忠興も現れたので、
「汝の歌は。」
「歌と申すもの、二十五歳の今日初めて試みました。」
「いかなる歌が詠めたか、披露して見せい。」
「君が代の長きためしは松にすむ鶴の千とせをそへて數へむ。」
「添削の致しやうもない下手な歌じや。詞はさて惜き、その内容はなんぢや。鶴龜鶴
龜、芽出度し芽出度し、といふだけのことではないか。」
 幽齋は朱筆を投げて苦笑した。さうして、徐ろに戒めた。
「今後、少しは歌學もせよ。年老いて樂しみになるものぞ。」
 忠興、口を吃らせながら、
「それがし如き者が、なまじひに歌を作りましたならば、却つて父上の御名譽を汚す
ことにならないでございませうか。」
「なんと申す。いらぬ遠慮ぢやわい。汝等如きの五人や十人が汚したとて、乃公の歌
道が汚されるものかよ。」
 この幽齋の言葉はまことに味が深い。文武兩道の達者にして、しかも人に驕らぬ謙
虚な性質の持主ではあつたけれども、自分の歩める道に對しては、深甚の自身と自尊
心とを懐いてゐた。自尊心や自身力といふものは、その人次第で持つべきものだ。か
いなでの武士や歌よみなどに持たれては始末が悪いけれども、幽齋ならば持たねばな
らぬし、また持つてもらひたいものでもある。ある人間の藝が高いといふことは、他
人が寄つてたかつて持上げてゐることではなく、その人間自身の手と脚とで支へてゐ
るといふことであらねばならぬ。
 忠興は決して不肖の兒ではなかつた。武において乃父を辱しめなかつたのみなら
ず、晩年には相當の和歌も詠んだ。茶道の達人としての「三齋」を知らぬ者はない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■よみがえる新日本紀行 肥後秘花 ー熊本ー

2021-10-12 07:11:24 | 熊本

 我が家の近くの小学校では昨年、生徒たちが朝顔を育てていて正面玄関にずらりと並べられていたが、花は大輪の一輪だけで、これは一応「肥後朝顔の仕立て方」に沿ったものであったようだ。
ただ、ある時期に咲くように育てられるものとは違い、その咲く時期はその花任せであったようだ。
 
 一昨々日NHKの熊本ローカル番組「熊本の風」では、「よみがえる新日本紀行‐肥後秘花 ・熊本」を放送していた。
WEBサイト「徒然なか話」では昨日よみがえる新日本紀行として取り上げられていた。
放送では肥後六花の一つ「肥後朝顔」の仕立てを取り上げていた。
なかには、昭和56年のこととて、八代の松井家・松浜軒で開催された「菖蒲の茶会」のシーンもあり、松井家ご当主ご夫妻など、懐かしい方々のお顔を拝見した。
ここでは、御庭は「肥後菖蒲」がさかりであった。このお茶会には、私も数度出かけたことがあり感慨深い。

 横井小楠の句に 朝顔の花が見たくて起きにけり があるが、山崎貞士氏著「東肥花譜‐肥後の花と人と」で氏は、「これは小楠の生涯唯一の即興句」だとして紹介し、彌冨家の当主が届けたものであろうと述べておられる。
これとて、小学校の生徒たちの者と同様、咲く時期はその花任せであったろう。
処が、肥後朝顔は育ての段階で生育をコントロールして、ある時期・例えば展覧会の期日に合わせて花が咲くようにするという。
ただただ御見事というべきしか言葉がない。
明治維新期には衰微したものが復活し、愛好家の熱意により今日も続いている。
肥後人の忍耐強さと先人の遺徳を思う気持ちが脈々と生き続けている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■先祖附の内容

2021-10-11 10:00:00 | 先祖附

 永青文庫が収蔵する「先祖附」は、正徳四年(1724)四月に命が下されて作成に至っている。綱利最晩年の事である。(11月死去)
大概の書き出しは「先祖何某」とか「私曽祖父何某」などと書かれているが、それは細川家の豊前入国(慶長五年・1600)から124年も経過しているからのことである。
古いお宅では「御書出」を収納する小さな箱を今でもお持ちの家がある。命の次に大事なものとして、床柱に釘を打ちここに掲げられていた。緊急時にはこれを持ち出すためである。
これら資料に基づき、三代目・四代目の方が「御書出」「奉公覚」や「口伝」などをもって先代については書いたことになる。
「私何某は」と自分自身の筆記になるのは三代目・四代目の当主となり、以降は「〇代目何某」となるがこれは後代まとめて書き込まれたものである。筆跡が代々の人のものではない。
これまで多くの先祖附を読んできたが、内容に首をかしげるものが見受けられる。
これは藩庁が認めた公式なものであるから、脇からいろいろ物申すこともできない。よほどの証拠がない限りこれを覆すことは不可能である。

或る事件を調べようと「先祖附」を拝見すると、詳細に触れなかったり、事件そのものの記載をさけたりしており、そういう意味においては研究資料としては正確さを欠いていると言わざるを得ない。
また、家族関係や姻戚関係などにはほとんど触れておらず、他家の系図などから関係を紐解き驚かされることが多々ある。
これらを踏まえて「新・肥後細川藩侍帳」は、データの出処を明らかにして、種々の情報を盛り込む作業を続けている。
遅々たる作業を続けている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」一一、西征途上

2021-10-11 06:40:42 | 先祖附

     一一、西征途上

 天正十五年三月、關白秀吉、島津氏征伐のため西征の途に上り、幽齋は、嗣子忠興
をして七百の兵を率ゐ、これに随行せしめた、さて、おのれは從者數人を連れ、四月
十九日、田邉城下の港から出帆し、ひたすら山陰道の沿岸を急いだ。あるときは「足
占山」の麓を漕いで、軍書の欲必則莫令ト問軍吉凶を想ひ「吉も凶も占ふ暇があ
るか」と通り過ぎ、あるときは「居ぐみ」といふ海村に「旅宿いと所せくて、上なか
下、らうがはしき假枕」と雑喉寝し、あるときは「かゝ」といふ漁村の苫屋に泊つ
て、添乳の嬰児の啼くのに目をさまし、月の末の廿八日といふに、杵築大社を拝ん
で、とある旅宿におちつき、「椎の葉ばかりに盛りたる飯」を食べて夕餉をすませ
た。梅雨の前觸らしい小雨が、そぼそぼと降つてゐた。
「若狭の葛西なにがしと申す者、是非おめどほり願ひ度しと、かどぐちで蓑笠を脱い
て居ります。」
「囃子方の清兵衛だ。通れと申せ。」
 三十歳には未だ間のありそうな、色白の、やせた顔した葛西清兵衛、弟子三人と一
緒に座敷にはひつて來た。幽齋戰場に赴いて萬一の事あらば、太鼓の秘術を授かるに
すべなしと、小濱の郷里から追ひかけて來たのである。笛鼓の役者達が見えた由は、
忽ち、あたりへ聞えて、大社の禰宜らが、酒肴など持ち込み、賑やかな一座となつ

た。京都の職分の噂が出ると、「觀世太夫の葛物も幽玄だが、一噌の笛が天下一品
だ」と幽齋は批評した。葛西のいふやう、
「先頃關白さまの三輪を拝見致しました。途中で手をお忘れになり、見附柱の際から
と舞はれましたが、それがいささかも可笑しくは拝せられませんでした。」
 幽齋微笑みながら、
「其處だて。度胸と申すものぢや。舞臺も、戰場も、われらが歌を詠む机の上も、畢
竟は度胸一つのものぞ。」
 亂舞の興も終つて、夜が更けると、他の者共を退かせ、幽齋と葛西と二人が指向ひ
になつた。
「昔、豊原時秋が新羅三郎を足柄山まで追ひかけたと申しますが。」
「やめろ。追從は
嫌ひぢや。乃公は義光ではない。」
 頭から水を浴びせられたやうな思ひをして、葛西は緘黙した。やがて葛西のさし出
した太鼓を膝の前に据ゑて、幽齋は左右の手に撥を握つた。早舞物の「融」を打つの
である。彼の顔は異様に緊張した。二つの撥は、こも/\急霰の如く太鼓のおもてに
落ち、太鼓のおもては生けるものの如く撥を彈ね返した。イヤアの掛聲と共に打ちお
ろした最後の撥に、皮は裂けたかと思はれた。
「有難う存上げます。」
「なかなか以つて。左右を同時に使ふので、劔よりは難物ぢや。ずゐぶん苦勞して見
たが、今だに左の撥の切れが悪い。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■散歩休止3日

2021-10-10 10:42:22 | 徒然

 少々疲れがたまって散歩を三日休んでいる。散歩を続けたのが直接原因ではないと思っているが、影響もしているのだろう。
糖尿も原因しているのだと思うが、改善するために散歩をしているのだからなんとも歯がゆい感じがする。
今週は定期の病院行き、この辺りをDrによくお聞きしたいと思っている。(糖尿由来の水虫も完治ならず)

 久しぶりに友人が電話してきて、「電話の声に張りがないな~、大丈夫か?」というから、「夏バテだ」「大丈夫だ」と言っておいたが、相手はすっかりお見通しである。「もうしばらくは元気で居ろ」と有難いやら胡散臭い励ましをもらった。友人は88歳を目標に生きているという。
「微妙な数字だな」ときいたら、「そこまで行けば後はおまけ・・」だそうな。88は御父上の没年だそうだ。

 今日の熊本は又32度とか33度とか言っている。散歩に出ようかと思っているが、奥方から10時以降は外出禁止を命じられている。
そして「朝早く出かけたら?」と奥方は言うが、起床はできるが体がすぐには反応しない。
熊本の日の出は6時17分、二三年前は、暗闇の中を歩いたものだが・・どうしましょう・・


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本史談会10月例会・ご案内

2021-10-10 09:27:33 | 熊本史談会

                                                                      
           日時:令和3年10月16日(土曜日)
                 AM10:00~11:30(90分)
           場所:熊本市民会館・第9会議室

           演題:熊本の明治維新ー熊本洋学校教師ジェーンズの業績
           講師:ジェーンズの会副会長・前ジェーンズ邸館長 黒田孔太郎氏

            一般参加自由:
                    参加費300円を申し受けます。
              資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
              尚、開会前に当会会合を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
              又、当日はコロナ対策の為マスク着用ならびにご記名をお願いいたします。

          尚、次回11月例会は、熊本県文化協会理事長並びに公益財団法人・永青文庫 理事・吉丸良治氏の講演を予定しております。         
          11月上旬に、熊本日日新聞文化面並びに当サイトで告示いたしますので、たくさんの皆様のご出席をお願いいたします。
        又、当会の新規加入は随時受け付けておりますので、ご入会もご検討くださいませ。
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする