津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

今日の毎日新聞・地方版

2013-06-13 23:20:34 | 新聞

出版:米良家、激動の400年 末孫・近藤氏と研究家・佐藤氏、一族の足跡たどり /熊本

毎日新聞 2013年06月13日 地方版

 ◇初代・熊本藩主に仕官~12代・シベリア抑留

 江戸時代から現代までの400年間の一族の歴史をたどった著書「肥後藩参百石 米良家」が出版された。著者は米良家の末孫で札幌在住の近藤健氏と、東京の歴史研究家、佐藤誠氏の2人。8年がかりで完成させた。

 米良家の系譜をさかのぼり、日本史上のさまざまな事件とのかかわりに触れる。米良家の初祖は、熊本藩初代藩主の細川忠利に仕官した。米良家の2代当主は、赤穂義士、堀部弥兵衛の介錯人を務めた。8代目は幕末の相模湾警備、2度の長州征討戦に従軍した。

 10代目は明治9年の神風連の乱に参加して自刃し、9代目は明治10年の西南戦争で熊本隊員として西郷軍に合流して戦死した。

 11代目は屯田兵に志願して北海道へ移住した。13代目は太平洋戦争のレイテ沖海戦にゼロ戦の操縦士として参加した。12代目はソ連軍によるシベリア抑留中に病死した。

 熊本を出自として変転を経て北海道へ移った一族の足跡を、豊富な史料とともに振り返っている。福岡市の出版社「花乱社」刊。346ページ、3800円。【大島透】

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綿考輯録に見る秀吉の九州平定(4・了)

2013-06-13 07:13:26 | 熊本史談会

日向大隅の内一揆所々に有之由聞へ候間、忠興君等の諸将五万余の兵にて、五月廿日二手に分れ押向ハる、先ツ野村兵部丞か居城山崎城に向ひ給ふに、降を乞て城を渡し、其外所々の一揆悉く攻平け、五六日の内日隅平均いたし候間、秀吉公其功労を賞せられ候、秀吉公ハ肥後八代城迄御還座有
    
    一書、此時秀吉公より忠興君へ被遣候御書
      先手より書状之通令披見候、明日は仮川深候共、河際迄可成御座、少々透を被計御覧被成、御川越候条可成其意候
      則朱印先手へ早々自其方遣、不寄夜中御返事可差越候也
            酉刻
              五月廿一日                 秀吉 朱印
                 羽柴与市郎殿へ

    右御書此砌なるにや、考に一書に、秀吉公鹿児島近き千代川辺ニ陳を寄られ、忠興君へ書を賜るとて右の御書有、五月七日嶋津氏降参なるに、
    同廿一日ニ千代川越さるへきとの事いふかし、強而考候ニ、日隅の方に一揆有と聞へ、廿日忠興君御出勢、秀吉公も押せらるへきとての書なるへ
    きか追考之上本文に直し可申候、一書、秀吉公廿一日山崎ニ御着陳と云々、南海治乱記云、五月廿一日 殿下太平寺を御立有て山崎城ニ御入
    陳、次の日祁塔院口の御陳回ありて山崎江御帰座、廿三日鶴田の城まて御出有て、大隅江兵衆を遣され、人質を相定、大隅日向平均して薩州新
    納武蔵守か居城大口へ寄せらる処ニ、先衆ニ鉄炮を打掛る、先衆より便を遣し、島津義久泰平寺に参候し本領を案堵す、何とて違変するやとて大
    軍押入ほとに、野も山も混らに軍勢充満し、殿下御陳大口の城二十町はかりに寄せらるゝ、武蔵守即肩衣袴を着し御陳所江参り申上るハ、嶋津事
    手前忘却仕り、降参申たる事我等に不申送して、御旗先に不礼仕候とて、男子を人質に差上而御礼申上、平均、五月廿七日肥州水俣は御帰座、
    於是阿蘇宮の神主か居所山中険難の地なる故ニ、百姓とも楯籠の聞へあり、成敗を加らるへしとて、浅野弾正・戸田民部少輔・福嶋左衛門大夫・
    羽柴与一郎・高山右近・中川藤兵衛・羽柴忠三郎・羽柴三郎左衛門・羽柴彦六・羽柴五郎右衛門・林長兵衛を被遣、山中の者共人質を出し御赦免
    を乞故ニ平均す、夫より熊本江御動座と云々
       菊池伝記ニ、四月三日肥後南関正法禅寺ニ御陳を移されしに、国中の諸城主各御迎に出て先駈之勢に加る 中略 薩州御退治の後日向に打入給
    ひ豊後路を経て、肥後小国にいたり、醍醐満願寺に御一宿 中略 、翌日小国を御立有て、筑後に至、肥後南関ニ御陳をすへられ、肥後を佐々成政
    ニ賜り、肥後国侍数十人ニ本領を宛行れ、成政か与力ニ定らると云々

熊本南関より筑後通り、筑前博多に数日御逗留、七月朔日箱崎御立、四日関の戸より御帰陳、忠興君も御帰陳被成候 
    私之(云ヵ)、秀吉公豊前より肥後通り所々御逗留、九州の諸将降参并御帰陳之節御止宿、肥後を佐々ニ被下等の日限、諸書一様ならす、いふか
    しきも多く候、且御家にかゝはらさる故略之

肥後国を佐々陸奥守成政に賜り、当国の地頭五拾壱人旗下に被仰付、熊本に在城有之候、然に隈府の城主隈部但馬守親永か領内、検地の事より色立候而、成政発向、隈府の城攻落し、同嫡子式部大輔親安か山鹿城をも被攻候処、国中所々に一揆起り熊本城を攻囲候間、家人等を以山鹿城を押へ、其身ハ熊本に後詰して寄手を追立、城内に入て敵を防かれ候、此事大坂に聞へ、秀吉公より援兵として忠興君・蜂須賀阿波守・加藤左馬助・毛利壱岐守等被差向候処、其内ニ一揆しつまり候間、忠興君・蜂須賀・加藤等は御下向なく、毛利壱岐守謀を以一揆の頭人隈部父子を召寄、小倉と柳川にて殺害せしめ、成政ハ平均の地を二度勃興せし罪によつて、翌年四月摂州尼崎にて切腹被仰付候、左候而肥後益城郡甲佐川を限、南を小西摂津守、北を加藤主計頭に被下候

                                            (了) 

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