津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お安く読む・平凡社新書「犬の伊勢参り」

2013-06-03 19:21:12 | 熊本史談会
    犬の伊勢参り (平凡社新書)
 
        平凡社

 

内容紹介

明和八年四月、犬が突如、単独で伊勢参りを始めた。
以来、約百年にわたって、伊勢参りする犬の目撃談が数多く残されている。
犬はなぜ伊勢参りを始めたのか。
どのようにしてお参りし、国元へ帰ったのか? そしてなぜ明治になって、伊勢にむかうことをやめたのか?
事実は小説より奇なり! ヒトとイヌの不思議な物語の謎を探る。
 
読むべし・・・・・・・・・
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石垣原の戦い・残照 「富来城」

2013-06-03 08:38:33 | 歴史

 綿考輯録においては「冨来」城と記されているが、「富来=とみく」城が本当であろう。

瀬戸内の伊予灘に中津から別府に至る途中にこぶのように飛び出た国東半島の東の端に位置する城である。富来氏による築城は古く弘長元(1263)年だとされる。富来氏は長きにわたり大友氏に忠節を貫いたが、大友氏の没落に運命を共にした。その後は豊臣秀吉により、垣見氏が入城した。
黒田如水の攻撃を受け、城主垣見和泉守家純の留守を守り十日間よく守り通したが、家純が関ヶ原戦で討死した旨の報に接し、遂に開城した。
黒田氏の支配するところとなったが、黒田氏の筑前移封後は新たに豊前の国主となった細川家の支配下となった。

細川家は、この城が「要害堅固之地なる故、玄旨君(細川幽齋)之御居城に可然かと被仰上候へ共、都遠く候而御望不被成候」とのことで、城は三百四十年の歴史を閉じて割城の運命となった。現在では本丸の一部である外廊物見と空堀跡がわずかに残るのみだという。周辺には、空堀・鉄炮町・溝口・本丸・三の丸・城屋敷・隅櫓などの古名が残っている。

実は我が家のすぐ近所に垣見氏の住まいが在る。富来城の開城後一族は帰農したとされるが、その末につながる御宅ではないかと思っているのだが、御話をお聞きするに至っていない。

 

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