6月15日は熊本史談会の例会である。今回は津々堂の担当で「水野勝成覚書」を取り上げることにした。
予習の意味で読み込みをしているが、多様な登場人物に驚かされている。
この「覚書」は全39頁に及ぶものだが、「牢人仕候時分之事」として7頁を費やし、ここでは肥後国衆一揆から天草の戦いを主として書かれている。
今回は熊本に関わるこの7頁を特に取り上げて見たいと思っている。
寛永十八年五月の日付があり、自分を始め多くの人達の名前をあげて高名や手負い・戦死などを書き込んでいるが、これは吟味に応える為だとしている。
■くまべ但馬 肥後国衆一揆の首謀者とされた隈部親永である。
■但馬(おや)こ 親永の息・隈部親泰である。城村城主。
■小谷又右衛門 隈府城攻にて高名
■松下弥平次 同上 加藤家侍帳に同名の人有り、同一人なるか不明
■見た村庄左衛門 三田村庄左衛門・佐々成政取立の人
■安國寺 安國寺恵瓊のことである。この戦いでは毛利家の物頭として、兵粮を入れたことが記されている。
■橘左近 柳川藩主・立花宗茂のことである。
■同・弥七 宗茂の実弟・立花直次(初名・高橋統増 弥七郎) 歳のころ「廿はかり」で「残る所無御座はたらき」とある。
のちの三池藩初代藩主となる。(柳川藩の支藩ではない)
■天野源右衛門(安田作兵衛)
本能寺の変で森乱丸を仕留めた人物(安田)である。羽柴美濃(秀長)に仕えたが、この時期は立花家に堪忍として仕えた。
■遠藤助右衛門 佐々成政家中
■十時(名前失念) 共に戦った同志であるが勝成は名前を忘れている。熊本城接収の折橘(立花)三左衛門に聞き合わせ、十時連貞であること
を知った。息・三弥にその後の消息を尋ねている。
■橘三左衛門
■十時三弥 十時連貞の息
■いたば助之進
■山田庄大夫
■あざい喜八郎 浅井長政の男(?)とされる。夏の陣に討死したとも、京極家に客分として仕えたとも言われる。
■岡田将監 岡田善同のことである。
■原半左衛門
■鈴木小右衛門
■道家治右衛門
■くのり孫兵衛
■うへ松大せん
■岡田将監 前出
■浅井喜八郎 前出
■すみ作助
■まいの助兵衛
■ 息 又助
■野小兵衛
■木村(きらきら)
■小西摂津守
■小西主殿之介
■志き
■小西弥三兵衛
■伊地知文大夫
■加藤肥後守 正室(継室)清浄院は水野忠重女・徳川家康養女
■伊藤忠左衛門(へいらくじ事)
■杉浦甚右衛門
■伊川蔵人
■阿波のなるとの助 サイト「小西家 家臣団」
■ 同小姓 清吉 同上
■山田八蔵
■久米兵大夫
■中山瀬久之丞
■ 弟 山瀬勘右衛門
■一揆大将・民部大夫
■山岡道阿弥(加藤肥前) 山岡景友(?)
■岡田将監 前出
■南部無右衛門(岡田将監おばむこ)
■おほ木織部
■瀧野三位
■庄林隼人
■森本儀大夫
■飯田覚兵衛
■池田甚四郎
■久米兵大夫
■松平三蔵(加藤左介)兄弟
■山本左大夫
■はやししけりの助
■近藤弥之助
(未完・書き込み中)