津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

江戸時代の江津湖風景・・?

2013-06-01 17:30:13 | 熊本

 熊本県立図書館のサイトに併設して、近代文学館の「熊本近代文学館報」がある。その第27号(昭和24年3月31日)を除いてみたら、平成23年度に購入した収蔵品のリストがあった。その中に「江津湖描帳」というものがあった。松田蘇雪・近藤樵仙・桐原一峯・内海香州らによる水墨画で13点が納められているという。かっては河尻からの重要な水運の要路であった江津湖がどのように描かれているのか、大変興味深い。
ぜひ拝見したいものだと思っている。 
                   https://www.library.pref.kumamoto.jp/kindai/kanpou72.pdf 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気が付いていなかった佐方吉右衛門か事

2013-06-01 09:09:24 | 熊本

 綿考輯録から、細川家の豊前入国直後の事を眺めていたら、佐方吉右衛門に関わる記述が目に入ってきた。綿考輯録は随分読み込んできたつもりだが、今迄気が付いていないものである。佐方吉右衛門は幽齋公の田邊城籠城に入城して名を成している。歌道を通しての親交があった。

斯く言う記述とは次のようなものである。

      佐方吉右衛門ハ前廉、毛利壱岐守へ 小倉之城主 奉公、黒田氏紀伊か持之小城御攻候とて、毛利は加勢頼ニこされ、其時吉右衛門も加勢の人数ニ加
  り来高名も仕候由、入道之後三齋様御咄之伽ニ而候間、紀伊谷ニて之様体御物語之時、此節之案内者申上候通相違無御座段申上候
      考ニ、紀伊を紀井又城井とも有、太平記に出る紀伊常陸守か子孫之由、後ニハ和睦ニ及ひ、黒田氏たはかりて殺され候と也

これは、豊前入国後間もない時期に忠興が、「先年黒田長政人数四千はかりにて豊前之国士紀伊か所ニ働、散々後れをそられ候・・・其場所を御覧」になったという記述に関わってのことである。 

 

佐方家のことについて、ご子孫の元・郵政事務次官を勤められた佐方信博氏は、昭和61年「つづら文から」という72頁に及ぶ自家版の本を出されている。かって自家版の本ばかりを集め、これを有料で貸し付けている私設図書館?があって、そのサイトからこの本を見つけ出して借り受けた(一週間300円)ことがあった。
お手元にある資料なども駆使されて中身の濃い「我が家の歴史」書となっており、綿考輯録からの引用も多々あったが、上記の記述についてはお気づきになっていなかったのか引用されていない。

毛利壱岐守とは毛利勝信のことであるが、この人も肥後の国衆一揆の平定に関わったとされている。その後小倉六万国の城主となっている。
黒田氏の紀伊氏攻めは天正十六年のことである、毛利壱岐守の許で功名した佐方吉右衛門は先述の通、慶長五年の幽齋公の田邊城籠城に於いて行動を共にしているから、吉右衛門はこの戦後小倉を離れたと考えられる。
    

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする