津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

佐分利氏のこと

2013-06-29 21:56:56 | memo

肥後国誌「玉名郡内田手永」の項「木葉町」に、佐分利氏の出自を考えさせる一文がある。

  徳永左馬之助墓 御高札ノ後大松ノ下ニアリ石碑ノ銘ニ釋宗貞永禄七年六月十四日トアリ、子孫家號ヲ佐分利ト改メテ細川家ニ奉仕ス

徳永氏については慶長五年徳永寿昌成る人物が、美濃高須城56、000石の藩主となったが、息昌重の代に改易となった。
48年間二代で消えた。この寿昌が左馬之助を名乗っている。処が没年が全く違う。父親が該当するのではないかと考えたがこれも微妙に違う。
なにか関係がありそうだと思うのだが、全く違うのかもしれない。 

 

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要チェック・大喜多又兵衛の召し出し

2013-06-29 17:26:25 | 歴史

■ 大喜多又兵衛 (後に細川光尚に殉死した、山中又兵衛・氏連)
              尚々、ゑもんのかう(右衛門督)をとゝ、其方へ奉公申度と申二付而、下候故、
              書状調渡候へ共、此状ハ急被脚ニ先へ下し申候、跡より右之奉公人下り可
              申候、追而と書状有之付而、如此候、以上
                     ( 寛永十五年閏七月廿九日光尚宛忠利書状(1142)追而書)

         

   熊本縣史料 近世編第一 部分御舊記一・十八 p584に次のような史料が見受けられるが、これは明らかに上記記事に連なる文書だと考えられるが
 寛永十一年とあり、どちらかが間違いではなかろうか

              (寛永十一年)八月廿四日之飛札九月六日ニ参著披見申候
            一、大北又兵衛其元ニ著申候由得其意候
                                    忠利
                  六(光尚)
                   進候 

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木場太郎左衛門 vs 水野六左衛門

2013-06-29 11:55:02 | 史料

 肥後国衆一揆に於いて、肥後の小場太郎左衛門が佐々成政軍の水野六左衛門(勝成)に討取られるシーンが、肥後國誌ほかの史料に登場する。

かって熊本で藩校サミットが開催された折、小場氏の子孫(直系ではないが)である史談会の会員・木庭氏が、来賓で来られていた水野勝成の子孫で水野家現当主の水野勝之氏に対面され、この話が及んだことを近くで見届けたことがあった。

ここでは肥後国誌からその場面を含めご紹介しよう。

佐々陸奥守成政ハ同(天正十五年)八月七日衆軍ヲ引率シテ城村ニ發向シ 七日暁隈本ヨリ發ス 先ス日輪寺ニ斥候ヲ遣ハシ城内ヲ伺ヒ大手原口ヨリ古閑ノ谷堺ニ足軽ヲ進メ鉄炮手繁ク放シメ城内ノ足軽多ク討ルヽヲ見テ成政カ炮長相蒐リニ馳合ス、城内ヨリ之ヲ見テ原口ノ門ニ半町許リニ引付ケ有働左京糸木宮内小場次郎以下三十餘人切テ出群カル敵ヲ追返ス、同十三日寄手又原口ニ攻寄セ保柳口圓通寺口ニモ押寄セ保柳口ハ數刻戦テ相引ニス、圓通寺口ニハ佐々右馬頭ヲ将トシテ大勢攻詰打破ラント為ル所ニ城将(隈部道)親安鎗ヲ提ケ突出ケレハ持口ノ軍士立直シ荐リニ拒キ戦フ中浮武者頭孫市・又七・宮内等尾崎ヨリ横合ニ蒐リ其間僅カニ五六間矢玉一放スルヤ否ヤ鎗先ヲ汰ヘテ突蒐レハ寄手不怺辟易ス、右馬頭ハ■(活字つぶれ)ニ後レ引退クヲ隈部五郎兵衛カ従者追蒐シニ右馬頭取テ返シ鎗下ニ突伏ル、孫市・宮内之ヲ見テ遁スマシト追ケレハ右馬頭石原淵ニテ追詰ラレ引所ナク岩上ヨリ飛下ル、二人モ續テ飛下リ孫市逸ク右馬頭ヲ押伏シテ宮内透サス寄リテ首ヲ取ル、岩地蔵口ハ第一ノ切所ニテ守モ薄キヲ成政カ■(表示不能)兵三百餘押寄テ攻上リ巳ニ危ク見ヘシ時圓通寺ノ住僧勇威ヲ奮ツテ數度敵ヲ追下ス、木原藤兵衛ハ強弓ニテ持口ヨリ拳下リニ散々ニ射ル、孫市・宮内モ共ニ趨リ返リ群ル敵ノ後ヨリ馳立レハ寄手又敗走ス、成政カ物頭赤澤左近高木左エ門取テ返シ有働又七ト鎗ヲ合セ二人一所ニ討死ス、親安カ近習ノ士中原修理・河井権介・牧野主殿等衆ニ抽テ相働キ中原ハ河中ニテ太刀打シ鍔元ヨリ折レシ故ニ引組テ水中ニテ首ヲ取ル主殿モ同ク河中ニテ組討シ権助ハ能キ武者二人馬上ヨリ切テ落ス、寄手討ルヽ者太タ多シ、城中ヨリ小場太郎左エ門ト名乗リテ出シヲ寄手モ水野六左エ門勝成ト名乗テ蒐合セ小場ヲ討テ首級ヲ上ク之ヲ見テ城中ヨリ三人一同ニ切テ出水野ヲ中ニ韜ミケレ共勝成屑トセス三人共ニ切臥ル、勝成ニ積續テ道家次右衛門・鈴木小左エ門・浅井喜八郎・岡田将監・原半左エ門各敵ヲ討テ首ヲ獲ル、山田庄太夫モ劣ラス前ミシカハ城上ノ鉄炮ニ眉間ヲ撃レテ馬上ヨリ逆ニ落テ死ス、斯ル處ニ隈本ヨリ飛檄ヲ以テ國中ノ一揆等城ヲ攻圍ル由ヲ告来ルニヨリ成政前後ノ敵ニ心ヲ苦シメ先ス東西二ヶ所ノ付城ヲ國士ニ築サセ東ノ付城ニハ前野又五郎忠勝・瀧三位・多田新兵衛・杉山少佐以下百七十人、西ニハ大木彌助兼能・三田村勝左衛門・才田傳右衛門、小島庄蔵・石田源助以下百八十人ヲ籠メ置山鹿街道ハ敵定テ遮ルヘシトテ合志通リ坪井谷ヨリ隈本ニ歸城ス、斯テ城内ニハ有働兼元思慮ヲ運ラシテ書簡ヲ多ク認メ今日ハ隈部カ身ノ上明日ハ各ノ身ノ上ナルヘシ隈部代々菊池ノ老臣トシテ剰ヘ秀吉公ヨリ本領安堵ノ朱印ヲモ賜リシ罪無キ隈部ヲ亡シ所領ヲ奪フヘキ成政カ結構也往々國士ヲ亡シ悉ク所領ヲ奪ヘシ然ルニ各付城ノ普請ハ何事ソ自滅ヲ招クニ等シ此所ヲ考ヘナハ却テ隈本城ニ取掛ケ心ヲ一途ニシテ攻メナハ糧道モ塞リ敵難儀ニ及フヘキ左ナクハ成政隈本ニ歸ラン共節所ニ待受ケ不意ニ起リ討留ヘシト書送リケレハ寄手ノ國士尤ト同シ各人數ヲ引拂ヒ小代計リ残リケルトナリ、成政ハ隈本ニ歸リ阿蘇ノ舊臣等カ反リ忠ニテ一揆ヲ打退ケ夫ヨリ玉名郡和仁城ヲ攻落シ又當城ニ攻蒐ル、天正十六年四月三日成政ニ台命有テ同十四日攝州尼ケ崎ニ於テ切腹ス、秀吉公又命有テ黒田勘解由孝隆・毛利壹岐守勝信・安國寺法印恵瓊肥後ニ下リ孝隆城中ニ使价ヲ以テ今般ノ逆意ハ成政ニ恨アリテノ事ニヤ又ハ天下ニ對シテノ事ナリヤト言送ル、城将隈部親安使价ニ對面シ我等式ノ何ソヤ天下ニ對シ奉リ爭カ逆心可仕哉成政カ非道ヲ恨ルノミト荅ケレハ左アラハ城ニ居ナカラノ返事ハ憚リナリ親永・親房ハ柳川ニ開キ親安・兼元ハ小倉ニ蟄シ罪無キ趣ヲ秀吉公へ訴達セハ本領安堵疑ナシト言送ル、各畏候トテ下城シ親永父子ハ即チ立花左近将監続茂方へ親安・兼元并山鹿重安・有働甲斐・同能登・同志摩・小場道菴・北里與三兵衛・甲斐平蔵以下十五人ハ毛利壹岐守勝信カ方へ這シ使价ヲ以テ各ノ事ヲ上聞ニ達スル處ニ切腹スヘキ旨台命也トテ同年五月二十七日終ニ両所ニテ被戮テヨリ當城ハ廢セリ、城親賢カ子十郎太郎久基・赤星入道道半ハ此度ノ一揆ニモ不與又成政ニモ不助力シテ却テ一揆ニ與スル由聴ヘシカハ急キ大坂ニ至リテ聊無罪由ヲ陳謝スレ共秀吉公宥許ナク遂ニ本領ヲ没収セラレ道半ハ是ヨリ阿波國へ瓢零シ元和五年八十九歳ニテ病死スト云、城村ノ城跡今ヤ畑トナレリ(以下略)

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