津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川興元の事・・出奔

2013-06-07 13:39:24 | 歴史

 細川家の豊前入国から一年を経た慶長六年十二月中旬、幽齋公が初めて中津に下られた。所々の御城代も中津に参集して御祝いを申し上げた。
そんな中玄蕃(興元)は所労を理由に養嗣子与五郎(興秋-忠興二男)を御名代として出席させた。忠興が不審に思う中、翌日小倉より「玄蕃殿御立退との飛脚来り、相残ル士より書置相添注進仕候」という状況になった。忠興の怒りは相当な物であったろうと思われるが、詳らかな記事は見受けられない。
綿考輯録は、忠興君の御意として「丹後ニてハ与十郎(孝行)・松井よりも少身なるを、相身代にして弐万五千石遣候ニ、無理なる不足と被仰候」とある。

忠興の豊前入り後、「与五郎殿ハ直ニ中津へ被留置、小倉城改の奉行として村上八郎左衛門・飯河豊前を早速被遣候、玄蕃殿ハ小倉御在城ニて松井と共ニ両家老職なりしに、流石に陪臣と成事をいきとほり、黒田甲斐守長政と密に謀し合せ、長政より小倉の大橋に迎舟を越され、大坂に遁れ被行候由」とある。(綿考輯録 巻十七 p416)

石垣原の戦いに於いては共に戦場で苦労を共にした、細川家・黒田家であったが、黒田氏の筑前移封にあたっては旧領豊前の米を前納の形で持ち去り、このことをきっかけとして両家の仲が悪くなり、其のわだかまりが解けたのは重賢公の時代に至るという。
また、興元出奔に際し、黒田長政の助けが在ったことが忠興の心証を悪くしている。

忠興と興元の和解は、慶長十三年春「忠興君・興元主御一同に家康公御前被為召、御直之上意ニ兄弟不和不可然候、自今和睦可被仕との旨ニより御請被仰上候由」との申伝であるという。(綿考輯録巻二十 p87) 

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