津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興公、松平姓をお断り

2013-06-18 10:08:10 | 史料

 元和元年十二月廿四日、忠興公は駿府に赴き家康公に御目見し、「大阪之役御武功抜群」として「信国の御脇差」を拝領している。
綿考輯録は時期がはっきりしないが、羽柴姓を改め細川姓に戻したと記されている。(綿考輯録・巻二十 p53)
松平姓を願われてはどうかと土井大炊頭にいわれ、これをことわり徳川姓ならばと思いがけないことをいっている。

   羽柴氏ハ無故して太閤被赦之、御復姓可然由被仰出候間、細川ニ御改被成候、同廿九日江戸御着、土井大炊頭殿御使ニ而御対面可被成由ニ付、
   即日御登城被成候、此時松平を御願可然と土井氏 一ニ伝長老 内意被仰候得共、徳川ならハ御願可被成か、松平ハ源氏之名字ニ而もなく、羽柴と
   同意なる由御返答被成候、大炊殿達而御申候へ共、家之細川にて居候ハんと被仰候、此以前嶋津殿江松平拝領之時も持前之嶋津ニ而可居ニ、い
   らさる儀と被仰候しなり

      (前略)又一書ニ、関原御帰陳之上、秀忠公より大炊頭殿を以御指物御所望被成、同時ニ内意被申候は、松平姓を被遣度御内存ニ候、如何とあ
      れハ、忠興君仰ニ、上よりの被仰付ニ候ヘハ兎角難申上候、御内意と御座候ハゝ迚之事ニ徳川氏を御免被下候ヘハ、一入難有可奉存と被仰候
      ニ付、其後ハ無挨拶退座なりと云々、虚実難計

 

「徳川氏云々」の話はいかな忠興公とて、このような発言はされないだろう。まことに「虚実はかり難い」話ではある。 

コメント (1)
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