津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綿考輯録に見る秀吉の九州平定(1)

2013-06-10 07:09:21 | 史料

 豊臣秀吉による九州平定に於いては、秀吉を総大将とする肥後表陣立と、弟秀長を大将とする日向表陣立によったが、細川家は秀吉の十一番隊の内の四番隊を預かり出軍した。綿考輯録から御紹介する。ちなみに忠興は24歳である。

天正十五年丁亥三月朔日、秀吉公京を立て西征あり、忠興君も御先手にて御出勢被成候、是九州久敷闘乱のミにて、近年は嶋津義久・大伴(友)義鎮弓箭を取驕りて、自余の輩ハ自然と両家の旗本に属し乱撃止事なし、然るに大伴は先達而秀吉公に従ハれ候間、去年も為加勢、毛利・小早川・黒田・仙石・長曽我部等被差遣、猶又和順の事をも被命得共、嶋津氏承引無之故、今度大軍を被催候、先陳は去冬以来正月二月迄に追々出勢いたし、中納言秀次 一ニ秀長 以下の諸将は豊後に討向ひ、府内にさゝへたる嶋津家の一類を退け、日向国へ乱入有へしと也、秀吉公ハ肥後口より攻入らるへきとて、忠興君も其御先被成、豊前に御渡海、小倉より三里東くさミと云所に御陳を居られ候、此所にて歩行者 一ニ御小人 喧■(口偏に花=嘩)を仕出し、相手を討て在家に取籠候を各取廻候へ共、容易に内に入者なかりしに、有吉太郎助聞付、走来り飛入て斬殺し候に、今に始さる働きと忠興君御感被成候、扨同国岩石城 筑前堺一ニ岩礁 に熊井越中守久重数百騎ニ而籠り、秋月種実入道宗全に合力するを可被攻かとて、秀吉公江窺候節之御返書 
         書状之通被 聞召候、能申越候、乍去秋月表可取
         巻候間、先達城共之事不相構候、最前書立遣候条、
         可得其意候、岩石取巻候事無用ニ候、心懸之通尤
         ニ候、森壱岐守ニ申付差遣候間、如書立可陳取候
         也
            三月廿六日          秀吉 朱印
              羽柴与市郎殿へ
              明石左近殿へ
              高山太(ママ)蔵太(少)輔殿へ
              赤松左兵衛殿へ
              中川右衛門大夫殿へ
              福島左衛門大夫殿へ
依之秋月か居城筑前の小熊を可被攻催也、然に秀吉公同廿八日長州赤間関より小倉に御渡り、廿九日同国馬嶽に着陳、四月朔日には其辺杉原山に御陳替候処、彼岩石城眼下に見へ候間、一時攻にして敵の目を驚せんとて、丹波少将秀勝を大将にて忠興君・蒲生・前田・日野等ニ先馳被仰付、三万余兵にて攻かゝらる、越中堅く防き弓鉄炮きひしく打かけ、味方の手負死を致すもの数多也、秀吉公使番を以一旦に攻破るへき旨、度々御下知有、依て死傷多きをも不厭、諸将ひとしく進て、三方を取巻、わさとやまの手をあけ置、火を放て攻かけ候に、敵城戸を開き、牛馬三百疋はかり繋き合せ尾に炬火を結付て追出し、其跡より城主熊井久重鋭兵を勝て討て出候間、寄手驚て乱れ騒く所に、松井康之先に在て衆を励し、忠興君の御昇少も動かす、武頭等下知を加へ筒先を揃て牛馬を打候間、前に伏て後兵猶豫するを見て抜つれて斬てかゝり、敵五六十討取、残兵を城に追込しかハ、秀吉公より牧村兵部大輔 一ニ牧野兵部少輔 利宣を使にて、今に始さる長岡の筋違昇、松井新助かなと被仰下候、蒲生家・前田家の軍士等我先に城に乗入、当手にてハ有吉太郎助一番に本丸に乗込、火を放て焼立、城主熊井を初め残りなく討取候
    井沢撰御家伝云、日向口よりハ羽柴美濃守(秀長)を大将にて尾藤甚右衛門・宮部法印・黒田父子・大友以下打入、忠興君も日向口に御向ひ、豊
    前下毛郡犬丸に御陳を居らるゝ処、仲津郡の内馬滝に御一宿有て、翌日香春へ越せられ、秀吉公に拝謁有、忠興君と氏郷と岩碏城の案内を撿見
    有て、香春へ帰給ふと云々
    武次筆記云、翌日蒲生氏郷・忠興君岩石へ物見に御出被成候処、畠に百姓居候を被召、城之様体御尋被成、香春へ御帰、秀吉公へ岩石攻申儀
    両人江被仰付候へと御望被成候、秀吉公被仰候ハ、皆共ハ木を枯候ニ枝より枯し候、御主ハ根より御枯し被成候間、秋月へ押候へと被仰候ニ
    付、秋月の方へ御押被成候、岩石は丹波少将殿に被仰付、御乗取被成候、秀吉公両人たまし候と三齋様被仰候事此儀ニ而、秀吉公より禁中へ言
    上之御書ニハ、氏郷・忠興公も御攻被成候様被遊候御証文有之と云々
    全記云、三月廿九日秀吉公馬嶽に本陳を移し、軍鑑等を召供し高山に上り、岩石を見下して御下知有、四月朔日暁天より城を囲むと云々、是も言
    上之御書ニ相違有、然共前夜城の様体御見積り被成候事、態御書ニのせられさるか是非不分明、又九州記にハ岩石ハ秋月か端城にて、家人芥
    田悪六兵衛と云者を将として籠置、寄手外輪を破り、詰の丸に押詰たり、城兵降参とあり、
    一書、松井胃介を新介と改む、今度忠興公の先鋒を勤たる故也と云々、考ニ誤なるへし、天正十三年利休自筆ニ而松井ニおくりたる書簡にも新介
    と有之、二年以前也 

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