津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川興元の事・・立藩とその死(2)

2013-06-09 13:07:48 | 歴史

 慶長十九年大坂之役将軍之御馬廻として御供、十一月朔日家康公二条城之御城にて大坂之責口を被定候との内、岡山御本陣之近所ニ玄蕃殿も御陳有へきとなり、扨船手之大将九鬼長門守・向井将監・千賀・小浜等若船軍あらハ人数不足なるへきかとて、御馬廻之内軍功ある人を撰ひ、十三人被遣候ニも玄蕃殿其一人なり、翌元和元年夏御陳ニも御旗本之御先手にて段々と城ニせまり、岡山と茶臼山の間の寄手の内ニ有、五月七日城方より味方之諸将を討取 小笠原秀政父子・本多忠朝等戦死 、気ニ乗て強く働、味方しらけて見へける時も、玄蕃殿を初関東御旗本之諸将馳合せ、稠敷戦ひ敵をかけ立、其外勝敗区にして終に城兵を追散し候、玄蕃殿手ニ首十四被討取
    山本日記 編年集成・難波戦記等粗同之、尤姓名等あやまりも有之か 、酒井雅楽頭ハ手之軍勢を息安房守ニ附せらる、細川玄蕃興元ハ小身なるゆへに副将とな
    りて軍之支配をなす、土井大炊頭利勝か陣之左ニならんて備を立る、大炊か副将佐久間備前・同大膳不快思ひ、玄蕃殿御軍法を背かるゝと云、玄
    蕃聞かさるかことくす、佐久間軍使を以御軍法を背かるゝと御旗本にうつたふ、大炊此事を雅楽に告る、大炊頭のうしろに備へられよといふ、玄蕃
    云く、およそ先陳後陳とて必前後に備るにてハなし、敵に対し地之形勢ニよりてハいかようにも侍る事なり、先陳右二陳左に備る事又珍らしからす、
    敵にあふに前ニ始め後ニはしむるを申なり、土井氏の軍始さるまへにハ当手の兵共にハ一人も戦せまし、此上ハ御軍法を背たるにはあらす、今見
    給へおほしめし知給ハん、といひし詞の下より土井方の備大ニ敗す、佐久間兄弟下知をなすといへ共不叶、此時左之二陳聊動転の気色なく、能図
    を守て突て出、大将安房守 此時ハ与四郎と云 をも敵にあはせ、当陳之者数刻戦て高名す、玄蕃自身も鑓をあはせ向敵三人突落す、かゝる所に
    両御所御陳をすゝめ来ろ給ふ、玄蕃弥競進んて敵を追退たり、爰に清けなる若武者唯今高名を究たりと見へて、鮮血に身を染、首を提け田之畔に
    うつくまる、安藤帯刀馬をよせて、いかなる者そと問、細川玄蕃か手之者加藤采女と名乗る、大御所聞し召れ勇士なりと宣ふ、大樹ヘハ山岡五郎作
    是を言上すと云々
    武辺咄ニ、大坂落城之時細川玄蕃頭興元鑓を合ると申上けれハ、家康公仰にハ、鑓を合ると云事左様ニ節々有物ニあらす、此茶臼山之北に見え
    たる勝曼院之山に、佐久間不干・筒井順慶・荒木村重籠りて大坂之門跡建如上人より攻候時に、本の鑓合たりと聞及たりと被仰しとなりと云々
    子細ありや、いふかし
右戦功によつて常州谷田部 一ニ矢田部 六千三百石余御加増拝領なり 谷田部ハ筑波・河内二郡之内ニ而候へ共、御居所は筑波郡ニ而候由、且又後年地御引替ニ付而、筑波郡之内少々上り、其代りニ新治郡之内御領分ニなり、三郡ニ入交候よし 、興元主の御子玄蕃頭興昌より豊前守興隆・長門守興長・長門守興虎・玄蕃頭興晴・長門守興徳と相続、領壱万六千三百余石、代々朝散大夫なり

元和五年三月十八日、江戸にて卒去、五十四歳、法名大光院韓英雄山

                                                     (了)

 

                                    

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