津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

十時三弥という人

2013-06-06 12:57:23 | 徒然

 直木賞作家・白石一郎の著作に「十時半睡事件帳」という以下のようなシリーズ物があった。    

  • 庖丁ざむらい 十時半睡事件帖 青樹社 1982 のち講談社文庫 
  • 観音妖女 十時半睡事件帖 青樹社 1985 のち講談社文庫 
  • 刀 十時半睡事件帖 青樹社 1988 のち講談社文庫 
  • 犬を飼う武士 十時半睡事件帖 講談社 1991 のち文庫 
  • 出世長屋 十時半睡事件帖 講談社 1993 のち文庫  
  • おんな舟 十時半睡事件帖 講談社 1997 のち文庫   
  • 東海道をゆく 十時半睡事件帖 講談社 2002 のち文庫  

新国劇の嶋田正吾の主演で、1994年NHK「十時半睡事件帖」をドラマ化したのだが、当時島田は88歳9か月で日本のテレビドラマ主演俳優の最高齢記録であったという。
主人公の名前が十時であり、九州出身の白石らしく柳川立花家の十時氏から引用したものであろう。年齢を感じさせない島田正吾のひょうひょうとした演技に見入ったものであった。先にも触れたが私は「福岡県史・近世史料編 柳川藩初期・下」を手に入れて親しんでいるが、ここに20ページ弱の十時家に関する文書が見え、大変興味深い。

肥後国衆一揆に際しても柳川立花家は出陣している。「水野勝成覚書」によると、勝成は立花家の某と共に戦っているがその人物の名前を失念してしまった。肥後の加藤忠廣が没落後、勝成は熊本城受取の一員として熊本に入った。その折立花家の家臣・橘(立花)三左衛門に出会い、肥後国衆一揆で共に戦った人について、「名前を失念した」旨を伝えて訊ねると、十時氏であることが判明した。そのご十時氏の息・三弥に逢い父親のその後を尋ねたりしている。

綿考輯録に於いてはガラシャ夫人の生害の折、屋敷から遁走した稲富の逸話として語られる中に、十時三弥の名前を見出すことが出来る。
      高麗御陳中ニ諸大将狩し給ふことあり、其時虎出たりしを各是を射留んとせしに、稲富伊賀と立花家十時三弥かまえをさして馳通る、
     両人是を鉄炮にて打候ニ、稲富ははつれ十時か玉中りける、跡にて其間数を計り見るに稲富は近く十時ハ遠し、其上稲富ハ鉄炮の名
     手、十時ハしろうとなり、今度の稲冨の形情によつて、其時も臆したる故にはつれたる成へしと人各評しけると云々
勝成がであった「名前を失念した」人ではなかろうか。 

島原の乱に於いて立花家家老十時三弥と細川家家臣とが、口論喧嘩の末果し合いになるところを、松井家家臣宇野与三左衛門治久が仲裁に入り事なきを得たことなどもあった。三弥はこの戦において死去したととも言われるが(?)、「福岡県史・近世史料編 柳川藩初期・下」によると、三弥という名は見えず十時主馬・十時吉兵衛の名があげられている。勝成も島原の乱には出陣しており、三弥と旧交を温めたかもしれない。

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