津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興公年表から(ニ)

2013-06-23 07:06:45 | 熊本

・天正五年(1577)十月十日、和州志(信)貴城攻松永久秀自殺

・   同月     父・藤孝と共に丹波(亀山・笹山・久下過部・籾井・菅城等)攻め
              
・天正六年(1578)   信長公御身近く御勤仕、御小姓に出させらる

                                                                                          
          この時期信長公の御腰物を拝領、小刀の柄に九曜の置物あり、これを見事也として絺の紋に御付、信長公に御目に懸けたところ
          「珍敷紋を付候」「一段見事也」とあって御定紋になさるべく仰出。

・   同年六月~七月  神吉・志方城攻め

・   同年八月       「藤孝君安土へ御出仕有り、忠興君縁辺の事を被達」
          光秀甚悦之、藤孝君・忠興君も家門の面目と御喜悦不斜、同月青竜寺にて御婚礼有、十六歳ニ而御夫婦御同年也

・   同年九月   丹波国小山・大槻・高山(一ニ高城)・馬堀等の城攻め

・   同年十一月   有岡城攻・細川勢付城に留まり越年

・天正七年(1579)七月  嶺山城(吉原山城)攻め   
          織田信長の天下統一と共に、城主は細川氏に代わり細川興元は、天正10年(1582)、本丸に御陣屋を建て、二ノ丸・三ノ丸を置き、
          寺谷の東(今の上町)市街地を開いて、嶺山(みねやま)と名付けた。

                                         

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